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BL問題から見る公共図書館への認識

 堺市立図書館のこの件について。

 これに潜んでる問題は、次の公共図書館に対する社会からの認識にあるのだと思う。

1 公共図書館は良書のみを提供しなければならない
2 公共図書館は収集した資料を即時にかつ積極的に提供(=貸出)しなければならない

 1は、よくある資料の価値論・要求論論争だと、一見価値論による認識だと思われるが、ここでいう良書と、図書館的価値ある資料とはかなり異なるので、実はこれは価値論とは関係がない。良書は社会的良書であって、その定義は「社会的悪書じゃない」、つまりエログロ、過激、とんでも、極左右etcではない、といったところだろうか。

 2は、要するに図書館資料ってのは消耗品として、短期間フローさせた後に廃棄しておしまい、という認識によるもの。つまりのところ、ストックを前提としてない、すぐに貸し出されない資料は無駄資料、っていうもの。

 うーん、確かに市立図書館がBLを大量に所蔵することの意味ってのは説明しにくいところで、要求論に依ったとしか言いようがなくて、批判されてもしょうがないとは思うんだけど、どうにも批判の方向が1の認識からでは甚だ危ない。公共図書館が選書をする理由は「全て買う予算がない」からであって、良書を選ぶのが目的ではないのだから。でも、そういう考えって図書館員にも希薄なんだよね、図書館の自由って言葉はすぐに出てくるけど。ここが社会も図書館側も勘違いしているところだと、いつも思うんだよね。今回の場合なら、BLの内容を問題視するのではなく、純粋に蔵書の偏りを問題にしてもらってないところが、公共図書館認識として失敗なんではなかろうか。

 あと、あまり議論されてないけど、2の視点も重要だと思うんだよね。別にBLを収集保存することが問題ではなくて、問題視されても当面は貸出制限したとて、保存しておく気概が図書館側にはあったのかと。市立がBLをそういうストック対象にするべきか否かはあるのだが、BLではなくとも、貸出されない・できない資料の収集保存を公共図書館の機能として考えているのか、なんだよ。資料提供方法じゃなくて、収集・保存資料の内容そのものに口を挟まれることに抗うことこそが、図書館の自由ってやつなんですよ。図書館員の選書にケチをつけられたと不快感を示すのが図書館の自由じゃないんだって。くれぐれも勘違いしなさんな、ってね。

 というのが、今回の問題で感じたこと。だから私は司書にも行政にも嫌われるんですかね…


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