個別表示

教育委員会の中立性と公共図書館

 朝日新聞 「「橋下知事は教育介入を」 府内市長から共感、賛同」(2008.9.17)

 「地方分権すればするほど、教育委員会の中立性は薄まるべきだと考えている」…地方分権と教育委員会の中立性は制度上無関係なはずだが、なるほど教育委員会制度そのもののあり方まで地方に委任すれば、このような首長の下では間違いなく教育は「中立」ではなくなろう。

 今更、戦時の反省から教育委員会の中立性を論じても実論にはならないだろうが、現状の教育委員会制度による教育の中立性は、民主的社会における教育には中立を軸とした「多様性の創造と許容」が不可欠だからその存在意義がある、と私は解釈している。つまり、教育=将来の社会が二元論に基づき1つの方向にしか向かない状態、これが最も危険だからこそ、その中立性が担保されているのだと思う。

 選挙による多数決で1人が選ばれる首長の手に教育を渡すということは、どちらの方向に偏向するにせよ、ある1つの価値観に縛られる可能性が非常に高いことを意味する。確かに今の教育委員会は閉鎖的であるし、「中立性」を隠れ蓑に組織的な停滞状態にあることは事実だろう。しかし、現状の首長たちが目指すものの先にあるのは、この停滞を打破し民主的な教育を実現するにあらず、自らの方向(それが個人的主観にせよ、支持者の総意にせよ)への誘導と背反するものの排除、即ち「教育からの多様性の奪取」という結果にしかならないのではないだろうか。

 当然、教育とは学校教育のみを指すのではない。特に社会の多様性を保持するに必要不可欠な教育施設の筆頭は図書館であろう。まさに図書館こそ「多様性の創造と許容」を担うべき存在であるにもかかわらず、現状の日本の公共図書館は弱体のままである。財政的理由も要因として挙げるべき事項ではあるが、それ以上にこれまで公共図書館そのものが多様性を頑なに受容せず、貸出という唯一の手段に依拠した運営をしている現状では、公共図書館にこの機能を担う素養からしてないと断じざるを得ない。また、思考する手間を避け単純な二元論によるポピュリズムが蔓延し始めた社会状況の醸成の責任の一端は、多様性を拒否し続けた公共図書館にも存在するというのは、飛躍し過ぎる考えだろうか。

 まだ公共図書館を積極的に廃止する方向にはないようだが、これは今の公共図書館が貸出というポピュリズムに支えられた機能に依存しているその一点でかろうじてかわしているのであって、いずれ図書館も中立性の放棄を担保にその存続を図らざるを得ない状況が必ず生まれよう。何度も引いて恐縮だがが、TRCの石井会長や片山前鳥取県知事は、図書館は権力への対立軸となるべきという主旨の発言している。当然対立だけすればいいというどこかの勘違いした意味ではなく、行政や首長に依拠するものもそうでないものも全てを含んだ情報を収集し、その発信源になれということであり、そのための図書館の中立性=中立を軸とした多様性の創造と許容なのだということを、特に公共図書館には早急に収めてもらわない限り、教育委員会の中立性と共に公共図書館の中立性も政治的介入により簡単に消失する運命にあるだろう。果たして、公共図書館は社会の多様性の源泉となる日まで存続できるのだろうか。