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学力調査の結果を公表するに必要な前提

 前回、あまりに左巻きな事を書いたが、あいつはコミュニストと断じられるのも癪なので、一応のフォロー(?)をしておきますと…

 学力調査再開の背景は前回書いた通りだという思いはその通りで、そんな思惑で年間60億円かけて調査するのは、国の危機的財政の折りに「無駄」だとは断じたい。
 ただし、学力調査結果を公開前提で実施し、かつ「唯一でない」(しかも平均点のみではなく)指標として公開し活用することにより、現状の教育を改善していくという方向であれば、調査は非常に有意義なものになろう。

 問題はどの方向に向けて改善していくか、である。現在の議論でも平均点だけが一人歩きしているが、平均点の上昇という結果を求めるにしても「底辺群の底上げにより平準化」、「真ん中から上の群を伸ばす」、「上位群を積極的にサポートする」(ここでいう群は児童生徒分布だけでなく、学校分布、地域分布などの意味も含みます)など色々な方法がある。多分、一番効率的なのは第2案だけど、現在話題になっている人たちが求めているのは第3案だろう。でも、一番効率が悪いけど公教育に求められるのは第1案(or第2案併用)。第3案単独はいわゆる教育格差の助長につながるので、本来なら公教育の趣旨から一番遠いはずなんだけど…(あれ?やっぱり左に寄ったか?)。まぁ、平均点とか偏差値の嘘は統計を少しかじれば分かるのですが、それが為政者含めて一般には理解しようとしないところ。平均点が一人歩きすることは確定だろうが、平均点を上げるにも分布をどうするのかの方向性が重要にもかかわらず、このままではこの点は軽視(あるいはあえて無視)されるのではなかろうか。平均点が上昇し、周辺より上になることのみで「努力した」「がんばった」と学校や教師の評価に直結させることは、非常に危険だ。各地域、学校により事情は千差万別であり、どういう結果が良であるかは各々違うはずである。今でも点数のために問題漏洩まがいや一部の児童にテストを受けさせないという、実に小賢しい手段を取る学校があるぐらいである。現状のまま学校別平均点まで公表することが何を引き起こすのか…である。

 ちなみに、公立の小中学校なのだから、結果公表により学校別の序列がついたところで、通学する学校は住居地で決まるのだからそれほど競争激化に繋がらないだろう、という意見もあると思う。しかし、ちゃんと教育委員会不要論派は学区自由化を推進している。もちろんいじめや不登校などの問題解消の一助になるという効用はあるが、これと学校別の学力調査結果公表が結びつくとどうなるか。そう、より明確に公立小中学校は学校単位で学力別に選別されていくのである。この状態で「がんばった」学校に予算を集中させるのは、前回書いたとおりのシナリオなのである。

 予算を盾に市町村別の結果公表を迫るということは、意図せずとも公表に前向き=点数のよい市町村に予算を傾斜配分させる結果に繋がる。この考えが市町村内でも共有されれば、それは学校別に傾斜配分させることとなろう。果たしてこれが公教育の改善と言えるのだろうか?少なくとも公立の小中学校では、環境(社会、家庭、学力etc.)の異なる者との接触により社会の多様性を認識する場であるべきだろう。公立小中学校が、無菌状態のつまらぬエリートと、ただ社会に従順なその他の人間を養成する機関になり下がってどうすると……げふんげふん、キーボードが滑った、滑った。つい教育学のレポートでも書いているような気になってしまった。

 私は、結果公表の前提として、学校別まで公表することを調査前から明示した上で、文科省や各自治体が「成績の悪い市町村・学校に対して予算・人員を傾斜配分し手厚くフォローする」ことを確約することを提案したい。これなら、地元住民の目があるので予算や評価を目当てにあえて悪い点数を目指す輩もほとんどいないだろう。もちろん、点数が悪いまま何もしない学校や教師を助長したいのではない。平均点だけでなく対前年比や成績分布、そして現場状況を勘案し、公正に学校や教師を評価するシステムを確立することが必須である。当然これが一番困難な事だとは思う。これが平均点による序列という楽な方向に流れていく要因なのだろう。それでも、教育の困難な底辺層をまともに教育することで学力も底上げできる学校・教師こそ、公立では評価されなければならないのではないだろうか。