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そうだよ図書館より公文書館だよ、一次資料は

 第165回国会内閣委員会 第3号平成18年10月27日(金曜日)

 前回の議員が国会図書館に資料修正を要求した話の続き。そっか、あの議員の攻撃対象、最初は国立公文書館の戦犯資料だったのね。国立公文書館は、思想的背景を基に資料整理の順序と公開・非公開の決定をするほど暇ではないと思うけど。最近は独法化させられたりもして大変なんじゃないかな。早く公開してほしくば人と金をつぎ込んであげてくださいな、ただし「あなた方にとって」都合の悪い情報が公開される可能性もありますけどね。

「何万件もある中で一つずつやるよりも、まず、こういう文書があるんですということを目録で出して、お引きいただいたようなことができるようにまずして」
「その目録をつくった後の作業が非常に遅々としてはかどっていない」
 実は来年度からうちの館もこういう方式に転換しようと個人で画策しているところなのだが、非公開(未判断含む)情報の目録化というのもこういう捉えをする人が存在することを考慮しなければならないのか、勉強になったよ、マジで。

 家永氏の論文に対する評価も議員「個人」のイデオロギーに基づいてることに絶対気付かないんだろうな、この手の人は。一次資料の重要性という点では何も間違っちゃいないけど、自分の信ずる結論へ持っていくための手段という思考しかない人が主張すると、全てが嘘くさく聞こえてしまうのがあまりにもったいない。いっそのこと、戦犯資料の中に右な人が困惑するような記述が多数見つかると、一次資料の価値・意義に対する理解が深まると共に、その時のこの人たちの言動で発言の本質が見えてくるのだが。万が一、思想的・政治的な判断で現在も未整理・非公開であるとすれば、むしろその内容はそういうことになってるからなのではなかろうか。是非、早期公開を…

 最後に、真実(歴史的にせよ、科学的にせよ)を知ろうとするという行為は、どれだけ努力しても真実を知ることができないリスクはもちろんだが、結果として判明した事実が期待したものではないというリスクも負う行為であることをもっと自覚してから事に掛からなくてはならない、そしてその時はその事実とじっくり向き合う覚悟がなければいけない、と感じた。政治家も研究者もちょっとそれが足りない人が多いのかな、でも自分だってそうな気がするので、自戒を込めて記しておく。