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『市民の図書館』と「これからの図書館像」、経済界が望む図書館はどっちだ?

 もうひとつぐだぐだ考えていたのがこのこと。
 以前にこちら(ケペル先生のブログ「図書館幕末血風録」)を読んだときから少し"もやっ"としたものが。いや、リンク先のお話を読んで考えるものがあった訳ではなく、「これからの図書館像」が指定管理者制度導入、更には新自由主義と結びついているという論拠が全然理解できないので、頷きには全く繋がりはしないのだが、一応指定管理者制度と図書館という事だけで考えても、指定管理者制度=民間解放で経済界大喜び、ということが論であるならば、はっきり言って公共図書館の指定管理者なんて民間業者にとっては利にならない効率の悪い商売であり、かつ運営方法についてもよく分かっていない役所や評価委員とかいう外部識者に好き勝手に意見され、翻弄されるので、TRCのような豊富な知識と強固な(?)信念で指定管理者となった業者ならいざ知らす、普通の民間業者では図書館のような施設の指定管理者なんて割に合わないと思う。役所の担当が分かっていないという話は以前書いたこちらに。指定管理者の評価については最近話題となっているが、経験では評価委員というのは大学のセンセから民間人まで様々で、委員会では様々な意見が出るのだが、その取捨選択が役所の担当はできない(←それだけの知識がない)ので、結局全ての意見に対して応えることを指定管理者に要求するのである。特に図書館なんかは「図書館とは」という問いに真摯に考える委員が多数を占めない限り、単に貸出数だけで評価される傾向になってしまいがちなのでは。そういう意味で指定管理者制度の図書館への導入は弊害があるとは思うけど。また、指定管理者導入によりその運営に対する監視を厳しくするというのなら、直営時代は放任でぐだぐだだったじゃないか、という指定管理者の愚痴はものすごく理解できたりするのだが。
 では、何に"もやっ"としたのかというと、新自由主義的な経済界の要求と「これからの図書館像」はどう繋がるのだろうか、というところから、実は「これからの図書館像」的図書館よりも『市民の図書館』的図書館の方が新自由主義にとっては喜ばしいんじゃないか、という考えを持ち始めたことなんである。は?ですか。うーん、これまた中途半端なところで思考が続かないんだけど、つまり「これからの図書館像」的図書館というのは、ものすごく端折るとレファレンスや情報発信等々をもっと重視して「考える市民」を作り出す方向を示しているのに対して、自民党への政治献金という手段で教育に口出す経済界の望みは、最近の教育改革の方針を見れば明らかなように、一部の超エリートとそれ以外、更に社会に不満を持つ者と持たない者を早くから分化して、社員にして自分たちの利になる超エリートに税金を多く投入して教育してもらい、残りの者には社会に物言わぬ従順な人間を安く安く育てて、非正規職員として下請け業者などで安く安く働かせるという教育制度にすることだと思うのね(一部、教育学者の請け売りや嘘、大げさが混じってますが)。つまり、経済界有利の社会制度に対して不平不満を言わぬ市民の生産が経済界にとっては非常に望ましいということは、図書館についても「これからの図書館像」的図書館への変革によって考える市民が増えるよりも、今の『市民の図書館』的図書館のまま貸出・予約に偏重して本を消耗品にし続ける図書館の方が実に望ましいんじゃないだろか、と。
 ……これもようまとめませんが、経済界はこのまま自滅していく図書館を横目で見てほくそ笑む、という構造があるんじゃないかなぁと。図書館はうかうかしていてはいけません。