言いたい放題、行政職員の図書館ツッコミ&へたれ日常blog
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・朝日新聞「図書館建て替え 県・高知市「合築」に」(2010.8.25)
・高知県教育委員会「新しい県立図書館整備に関する報告書等について」(2010.8.25)
高知の合築については、すでに4,5年前の橋本知事時代から知事と市長の間で案が出ていた話で、それがようやく具体的な計画段階になってきたものです。最近、一部の図書館業界人が騒ぎ出しているようですが、もし今までこの話を知らなかったのだとすれば、アンテナの感度が悪すぎだし、知っててなお荒唐無稽と笑っていたのであれば、ご自身の常識は世間の非常識だったという事を改めて認識してもらいたいところです。
さて、教育委員会が公表している報告書のうち、県市ワーキンググループによる「高知市立追手前小学校敷地への県立図書館・市民図書館の整備について」が注目に値する内容だと思います、何せカウンター業務や図書館システムも同一とすることを目指しているのですから。実現には、細かい問題が(報告書の指摘以上に)諸々と転がっていることは容易に想像がつきますが、いつも県立図書館についてうるさくしている私としては、この方向は結果として、県立図書館の存在意義を認識する(させる)ための大胆かつ適切な方策になっていると思うのです。もちろん、為政者はもちろん現場の人もそこまでの意図はないとは重々承知ですが。しかし、可能であれば私はこの合築作業とその後の運営に県側から参加したいと、本気で思っているほどです(新館に向けて中年でも可の採用がないかしら)。
高知県内の市町村立図書館は、高知市民にサービスが偏るとして合築に大いに反対しているそうですが、私にはその理由、根拠が理解できないです。どうせ県立図書館を単独で新築したところで、直接サービスに偏重し、その周辺住民にしかサービスが行き届かない、結果として概ね一番規模の大きな都市である県庁所在地に県と市の二重サービスが起こり、図書館サービスが手薄になりがちな小規模都市や地方には県立図書館の恩恵が何も及ばない、ということは、ここ15年ほどで新築された多くの県立図書館の状況をみれば明らかですけど。そのような主張は、例えば、長崎県立図書館の誘致に躍起になっている大村市のような構図が未だにあるように(大村市は市立図書館が老朽化したから県立図書館で代替させたいという意図で誘致に積極的)、高知県の市町村立図書館関係者ですら県立図書館論なしで、県立図書館をただの大きな図書館としてしか認識していない証左です。むしろ合築により、県には市町村立支援にリソースを割いてもらえるのだから、自館にとってこれほど有利なことはないはずです。一体、県立図書館とは何であると認識しているのでしょうか、と疑問を持たずにはいられません。
さて、全面的に賛成色を強めた論調になってしまいましたが、最後に問題点も指摘しておきます。まず、カウンターとシステムを1つにするのであれば、登録者情報の扱いが大きな課題となるでしょう。このシステムの登録者情報管理は市、県どちらの責任になり、どちらの個人情報保護条例が適用されるのか…例えば、県所有の資料しか利用していない人の登録者情報を、市職員がアクセスできるとすれば、それは県の個人情報保護条例違反になりかねない。まぁ、登録時に県・市両方の利用者登録になるという承諾を本人に得るというのが安易な解決策でしょうけど。ただ、最近でも岡崎市立図書館で警察に任意に情報を提供したという話もあって(事実なら市の個人情報保護条例違反であることは明白)、このあたりの情報の取り扱いは、より慎重に検討するべきです。
あと、県と市による資料収集分担と帰属の問題。おそらく、一般の雑誌や新刊は市が購入し、専門性の高いものを県が購入、となるのでしょうが、購入者=所有者のままにしておくと、将来的に高知市の資料を県がせっせと他市町村に頻繁に運搬することになるため、そのうち高知市が財政的に文句を言い出しかねない(高知市の税金で購入したもので他市町村民を利するなという話)。これは、ある程度年数が経って、市立図書館としては廃棄するべき段階になった資料を、無料で県に移管するということをしなければならないと思われますが、物理的な移動が発生しないために、おそらくこの手続きは行われないでしょう。中の人も気づかないであろう問題でしょうが、将来どこかで噴出してくるでしょう。
しかし、県立図書館にとっての最大の問題は、新館効果(来館者、直接貸出数の大幅増による表面的な成功の一般認知)が望めないことです。県立図書館機能としては成功するでしょうが、県議会では、表面的な成功を高知市に奪われることで、新館にした効果が目に見えないと問題視されるかもしれません。通常であれば教育委員会が「新館になって来館者が○人、貸出数が○点増えた」と答弁することで、運営費や資料費を数年は確保できるのですが、今回のケースでは合築により予算減の口実があらかじめ用意されている状況です。果たして、このような単純な成功数字なしで、県立としての予算を継続的に確保できるのか、実は年々かなり難しくなっていくと予想します。以前、図書館運営には二面性が必要だと書きましたが、その一面がないのは、やはり県立図書館の運営には短期的にはちと厳しいかなぁ、と。
長々と書きましたけど、個人的には期待を持って推移を見守りたいと思います。
※しばらく更新が停止しておりましたが、個人的に少々忙しくしているためです。またしばらく、放置することになると思います。
・三菱UFJリサーチ&コンサルティング サーチ・ナウ「指定管理者制度における官民意識の『ずれ』」(2009.11.16)
日付は少し古いが、最近目にしたので今更ながらエントリ。指定管理者側からの視点で、単文ではあるが、指定管理者制度の問題点をよく突いていると思う。
制度導入の目的は、これまでの個々の事例でほとんど明示されることはなかった。腹の中で行政側はコスト削減を第一に考えているのは明々白々ではあるが、これを小出しにしつつ、民間企業のノウハウによるサービス向上を前面に掲げてきたのが現状だ。しかし、ここで指摘のあるようにサービスとコストのバランスが均衡してきた中で、その相反する関係性と問題がようやく表出し始めてきたのは事実であろう。
また、丸投げなど行政側の当事者意識の欠如もやはり大きな問題である。そもそも、その施設管理の知識・経験がない、すなわち当事者意識を持ちようもない職員や部署が指定管理者を管理する体制を敷くことに対する問題点は、僭越ながら私も図書館の例で以前から指摘してきたところだが、例えば先般の浜名湖での痛ましい事故でも、これまでの静岡県の態度は、指定管理者に大きな責任があるというスタンスのようだが、あれは県の施設で起こった事故であり、一義的に責任を負うべきは県のはずであり、残念ながら当事者意識の欠如が如実に見られる事例になってしまっている。今回の事故は指定管理者に責任がないとは思わないが、その前に県には、制度を導入した責任、当該指定管理者を選定した責任、指定管理者による運営内容の把握と適正化を図れなかった責任(仮に指定管理者が運営計画と実態が剥離していたとしても、それを放置した責任はより重かろう)が先にある。行政の当事者意識の欠如は、指定管理者制度自体の欠陥ではないが、実質上の大きな問題点として挙げられるべき点である。
3つめについては、私には可否判断が難しいところではあるが、公共施設で民間企業が儲けることに対する嫌悪的感情をもって制度導入に原理的に反対することは、制度を全く理解していないことを自ら公言していることと同義であることだけは明らかである。少なくとも指定管理者制度について意見を持つのであれば、前提として制度に対する最低限の理解は必要で、それなくしての意見にはまったく正当性を持たなくなるのは、未だに「民営化反対」と叫ぶ団体を見れば明らかである。
最後の「指定管理者制度は、今まさに岐路にある」というのは、確かにそうであろう。しかしこれは指定管理者制度の設計の問題ではなく、制度自体を正しく理解していない行政と住民によるものである。本来の指定管理者制度の問題点はもっと別にあると思われるが、その問題が表出するに至らない段階で上記のような実務上の問題が噴出しているのである。よく考えると、指定管理者制度に関しては実に行政運営が幼稚であると言わざるをえないが、これは行政自体のレベルが低いというよりは、公共施設の運営に対する行政内部の重要度があまりに低いことに原因があると思われる。結局のところ、この行政の施設運営軽視の態度こそが一番の問題であり、施設を守るとして指定管理者制度導入に反対するのであれば、この視点からの論陣が絶対に必要であることを提案しておくが、恐らく知識の蓄積場たる公共図書館に関してすら、このような反対論の構築がなされないであろう事は、無料貸本屋たる公共図書館の現状容認派が反対することを考えると容易に推測されるが、いずれにせよ本当の敵は指定管理者制度でないことは確かである。私が「民営化反対」論を見るにつけ、いつも違和感を感じかつ鼻白んでしまう要因は、この「的外れ」なのであろう。
・中日新聞 「県図書館、寄贈の雑誌に広告掲載 財政難でスポンサー募集(岐阜)」(2010.5.13)
・毎日新聞 「県立図書館:25雑誌の購読停止 予算大幅減、県内で読めぬ懸念 /福島」(2010.5.15)
県立レベルであっても、まともな経営感覚が欠如して財政を悪化させた県は、財政健全化に託けて図書館の資料購入費を恐ろしいほど削減している。これに憤りを感じている人には是非、県は一体何を削り何を残しているのか、県全体の財政をよく見ていただきたいが、記事にある県だけではなく、一般論に広げてもよいほど金のない県は共通的に図書館の資料費を実に簡単に削っている。
理由は、ひとつは図書館運営には国の補助金が入らないから(地方交付税交付金の算定基準として図書館の項目はあるが、それに基づく交付金の使途は限られないので、図書館に使うかどうかは自治体の判断一つ)、ということ。財源の補助がない県単独事業はとにかく簡単に切りやすい。
あと、これは上記の理由より大きいか、小さいかは一口には断言できないが、当局(役所)や政治側に、県立図書館の資料費を削減することに抵抗がないことが挙げられる。当局はともかく、一昔前なら政治的には利用者からの反発を恐れていた部分があろう。確かにここ10〜20年で県立図書館は政治的な道具として各地で新館が完成し、その際に資料費も旧館時代から一気に増額され、年間予算で億を超すところも出てきた結果、しばらくは政治家の人気取り策に貢献してきた。しかし、昨今の財政状況の悪化と指定管理者制度の導入を当局よりちらつかされた結果、県立図書館は貸出至上主義及び単館主義からの脱退を余儀なくされ、ようやくレファレンスサービスやビジネス支援などへの転換を標榜するようになりつつあるのが現状だ。しかし、皮肉にもこの市町村立図書館との分化方針が当局に都合よく利用され、県立図書館の資料費がジリ貧にさせられたという面があると思われる。
福島県のように気まぐれ的に資料費を増減させている例は、県立図書館の資料費変動により将来の県立図書館の書庫で何が起こるかを、当局は(と経緯によっては図書館自身も)何も想定できていないことを、典型的に示しているだろう。所詮、急ごしらえでレファレンスに看板を掛け替えたところで、長年にわたって県立ですら自ら染みつかせた「無料貸本屋」のイメージは、当局、政治家、利用者、県民から簡単には払拭できないのである。政治的利用により発展した県立図書館が、後にこのように(予算的に)簡単に叩かれるのは、政治的利用に翻弄された部分で同情がないでもないが、結局は図書館自身が政治的な方向に同調しすぎて「無料貸本屋」であることが使命であると信じて疑わなかったからに他ならない。実につまらない構造である。
これは県立図書館が市町村立図書館ではなくなっただけの面で捉えられた故の悲劇である。県立図書館といえど、当局には図書館資料のフローは「購入→貸出→廃棄」でしかなく、しかもその期間は短期間である、つまり資料は純然たる消耗品でしかないと捉えられていたため、このうちの貸出、しかも新刊の貸出を重視しないという方針転換を県立図書館自ら行えば、当局はその前段の購入を喜んで削減するのは当然の帰結である。本来であればその先にあるはずの、県立図書館としての機能(資料面で言えば、県内市町村図書館の図書館としての資料保存機能、レファレンスサービス充実に見合う資料充実など)は、時間的制約があったとはいえ、県立図書館からの提示が弱すぎて、当局に取りあえげて貰えなかった(意地悪く言えば敢えて無視された)のである。これは、(自己反省も含めて)県立図書館側が「足りなかった」としか言いようがない。
記事のような資料費削減による影響は、現時点では新刊本や雑誌の購入が少なくて利用者から不満が出る程度で、入館者数や貸出数が簡単に落ち込むだけのことだとは思うが、最も危惧するべき影響は10年、20年後になって書庫資料の欠落や大きな断層が数多く生じることである。もっとも、ここを危惧できる人の割合は、新刊本や雑誌がないと県立図書館からそっぽを向く人の割合よりもはるかに小さい。そこが最大の問題である。
しかし、図書館とは(新館を含めて)設立された時がピークであとは下がる一方であるような運営をされる施設ではないはずである。少なくとも良い図書館を創るということは「時間と予算と人力をかけて徐々に成していく」ことであって、「短期的予算で簡単にできる」ことではないという事実は、図書館側の人間が強く発信していかなければならないことだが、果たしてそれを理解できている図書館人は現在何人いるのだろうか、甚だ心許ない。博物館、美術館も同じだが、日本では見渡す限り、最初に建物が建設された時がピークである公立図書館、博物館、美術館が大半である(安易に新しいもの好きの国民性と結びつけたくはないが、作り手側の状況として土○屋行政に偏重している特徴とは大いに関係しているような気はする)。ともあれ、この種の施設は「醸成」させていくという発想、またそれによりピークは作り続けていくという発想がそろそろ必要ではないだろうか。
この前の『出版ニュース』の件で、先日、我が故郷の市立図書館へ行ってきたのですが、閉架から出して貰って中身を確かめ、さてコピーをとろうと思って、カウンターの職員に声をかけたのです。
(ジェスチャーで書く真似をしながら)
「あのー、コピーしたいんですけど…」
「…はっ?」
(あぁ、よく分からぬボディランゲッジで言葉を省略してはいけないか…)
「複写をしたいのですが、申請書いただけますか?」
「…シンセイショ?」
(…あれ、まだ意味不?)
「えっと、コピー機を使いたいのですが、セルフ式なので複写の申請書か申込書かをですね…」
「あぁ、どうぞ使ってください」
(ほへっ??)
「何も書かなくていいんですか?」
(何なんだ、このおっさん?て顔で)
「どうぞ、そのままお金入れて使ってください…」
ってなやりとりがあった訳ですよ。いや、この際、職員の態度は無礼とか失礼とかという話じゃないんですよ。私が何を意図して話しているのか、皆目見当もつかないというような態度を問題視してるんです。閉架書庫から簡単に本を見つけてくれたので、たぶんあの人は司書だと思うんですよ。カウンターの司書が、セルフ式コピー機で利用者が複写する時は、申請とコピー後のチェックをせなあかんという建前を知らない、というのがやばいんちゃうか、という意味で。まぁ、実際の運用がどうだかというのは、この際いいんですけど…。
コピー機のすぐ前には、例のJLAの「資料には著作権があります」ポスターが思いっきり貼ってございました。ふーむ…
ちょっとタイトル煽り過ぎかなぁ、とも思うのですが、常々私はそう考えているという話。
まず、委託だ指定管理者制度だを吊し上げるのに、あれは官製ワーキングプアだと断じる人々・団体がいらっしゃいますが、民間と直営の非正規でそれほど待遇が違うとは思えないんですよね。時給や日給がそれほど違う訳でもないし、働かせ方が過酷になる訳でもないし(もしそうなら直営時が緩すぎたということを確認してもらいたい)、立場上の責任がものすごく大きくなるでもないのではないでしょうか。ただ単に、民営化や指定管理者制度で人件費を削減しているというのは、正規の数を減らしている訳で、自分達の席が減る事に対して、非正規をダシにした現役公務員(正規職員)の詭弁的抵抗ではないかと。ということで、直営、委託、指定管理者制度での違いを論じてもあまり意味がないので、以後一律に考えます。
で、図書館の非正規は待遇が悪いという話。そうですね、あまり広い視野で見たことはありませんが、いくらかの経験から言うと、図書館の非正規は他の役所の非正規よりよく働いている(もちろん例外ありですが)とは思います。そういう意味では時給が安いかもしれないですね。しかし、それでも図書館で働きたいという人が多いために、別にこれ以上時給を上げなくても、雇う側は困らない。個人的には司書資格がもう少し評価されてもいいがと思わなくもないですが、司書有資格者はご存じのとおりゴマンと溢れておりますし、司書有資格者ってだけで即戦力とは言い難いし、かといって上級司書とかほざいている業界団体もおりますが、上級司書って、正規で働いている司書しかなれないような制度設計のようなので、非正規とは基本無関係だし…という状況では、資格問題は非正規の待遇とは事実上直結してないと思うとります。
待遇が悪いというのは「自分の労働に対して」と考えるのが一般的ですが、図書館の非正規の方々はこれに加えて「他人の労働に対して」という少々精神的な問題も抱えているのではないでしょうか。もちろん同じ境遇の同僚と比較してもあるかもしれませんが、それはどの職場にもある話でして、ここでは自分を統括する正規職員に対して、という意味です。そう、彼ら正規は自分たち非正規より、2〜5倍以上の給料を貰い、有給休暇も多く、かつ定年まで身分が保障されながら昇給・昇進していく存在ですから。もちろん、そういう待遇を対価として貰うべき労働をしていれば、非正規も変に羨んだり、自分を諦めたりしないでしょうが、特に公立図書館の事務でやってくる職員の質は悪いことが多い。その辺に問題の根元があるように思えます。
結局、表面的に正規が非正規の境遇を憂うだけでは、問題は解決しないのです。また非正規が現にこれだけがんばって正規並みに仕事をしているのだから、それに応じた待遇にしてくれよという主張も、根本的解決には繋がらないでしょう。善悪はともかく、図書館だけ特別にそのような制度にすることは、事実上不可能ですから。
ではどうすればいいのか。私は、この非正規・正規の待遇の差は、何によって生じなければいけないのかを考えることが必要なのではないかと考えています。境遇を変えることが難しいのであれば、正規、非正規の境遇格差に見合う仕事格差をつけるべきなのです。(ここで絶対に勘違いしてほしくないのですが、非正規に単純作業しかさせないとか、重要な仕事は任せないという、幼稚な二元論的解釈はしないでいただきたいです。)非正規率の高い図書館では特に、役職のない一般の正規職員ほど非正規職員を束ねてマネジメントする能力が必要ですし、非正規ではできない役所とのやりとり(予算、人事、広報etc)も正規ならではの重要な任務です。もちろん図書館での経験があれば、内部業務でも非正規を指導し助言するだけの役割も担わなくてはいけません。むしろ、そういうことがきちんとできて、非正規職員が気持ちよく働く環境を提供できる正規職員であれば、非正規職員だって安月給でもモチベーション高く働いてくれると思うのです。それが実現されていないからこそ、非正規の不満が充満している、それだけのことなのではないかと。
こういう正規と非正規の役割分担がなされて初めて、正規と非正規の適正な人事配置や、業務委託・指定管理業務の適正な範囲の検討というところに入ることができるんじゃないかなぁ、と。正規がカウンターに立てないとニーズが分からなくなるという低次元な論議を見る度に、そんな図書館は指定管理者制度を全面的に導入した方がいい図書館になるだろう、と私はいつも頭でつぶやいてます。
まぁ、見出しの通りなんですけどね…
仕事で『出版ニュース』内の記事が必要になったのですが、これがなんと、県立(只今蔵点中なのですが)はとうの昔に購入打ち切りで、市町村立も購入なし。ええっ、あれってある種の図書館業界誌なのに、と思いつつしつこく県内で調べると…やや遠くの女子大にはあった。むー、でもかの大学図書館のHPは一般利用のことが特に明記されてないし、そもそもおっさんが校門をアポなしでくぐれるのかどうかも分からない。
しょうがないので、隣県で古そうな市立図書館を攻めてみたら、あっさり我が故郷の図書館にありました。しょうがない、週末に入院してる父の見舞いついでに行ってくるか、となったのですが、それにしても、公共図書館は『出版年鑑』さえあればもう『出版ニュース』はもういいってことなんでしょうかね?確かにどうでもよさげな記事もあるけど、図書館員が図書館や出版業界の知識を仕入れる気がなくなっているという気もするなぁ…
・JanJanニュース 「公共図書館の中立性は保たれているか」 (2009.12.26)
・日本禁煙学会HP 「タバコ礼賛「たくさんの不思議2010年2月号」の不当性について」(注)Word文書 (2009.12.27)
世の中には、新聞やテレビなどのマスコミの報道や情報を、ものの見事に鵜呑みにする人たちが結構います。マスコミは自主的に倫理規定などを設けて事業を実施しているため、トンデモ情報が流布されることはインターネットなどと比較すれば非常に少なく、また各社はそれにより概ね信用を得て成り立っているという構図がありますので、確かに視聴者や読者がそれを丸呑みするということも、大きくは間違っていないかもしれません。
しかし、例えば産経新聞と朝日新聞、フジテレビとテレビ朝日のように、同じ全国レベルのマスコミでも、特に社の主義主張を反映した報道では、同じネタでも正反対な視点で正反対な評価をしていることは、往々にしてあります。明らかな誤報や情報操作は別として(本当は、そういう事はよくあるという前提で見聞した方がいいけど)、どちらがより正しいとか好きとかは個人の問題です、そんなものは。しかし、恐ろしいことにこういう差異が存在するということ自体、認識できない人たちがいて、また認識できるレベルに達するとその差異が許せない、即ち自分の主義主張に合致したもの以外は存在を認めないと思うようになる人たちが出てくるのです。これは偏った思考の人たちに顕著なんですが、それは自分が偏っているからこそ、それ以外の幅が広くなるだけの単純な話だと思います。
また、これよりは弱いですが、マスコミ権威論と同じ構造が本という出版物にもあるようで、製本されて一般の流通に乗ったものは内容が正しいと思いこむ人もいるようです。これも本を作るというハードルが正確性を担保していると言えなくもないですが、実は大したハードルではないことは、ちょっと知っている人なら常識ですね。
で、これを複合して悪用していたのが新聞に「○○でがんが消えた!」系の本(バイブル本というらしい)をばんばん掲載していた出版社で、新聞の権威を広告費という金で買うという構図です(あまりにひどくて数年前に某社役員が逮捕されてからは沈静化したんだけど)。こんなん、金出せば全国紙でもほぼ掲載される類のもので、新聞社による内容審査なんて皆無だと知っていれば、権威もへったくれもないのですが、これが意外と○○新聞に載ったからいい本、正しい本なんだと信じる人が存在して、正しいものとして売れたりするんです。
図書館員や書店員の経験談だと、こういう人たちっていきなり
「今朝のC新聞(←特に東海地方だと絶大な影響力を持つ日本一の地方紙)に載ってたあの本、欲しいんだけど」
と問いかけてきて、タイトルや出版社を尋ねるとうろ覚え、メモしてくるとか新聞を持ってくるということは100%なくて、でもちょっとそれでは特定できないんですが…などと言おうものなら、
「あんた、書店員(図書館員)のくせに、新聞も読んでないの!」
と激高するらしい。あぁ、恐。書評欄ならいざ知らず、広告欄のうさんくさい本なんて知りたくもないわ、と言いたいところでしょうが、書店員の場合は商売だからそうとも言えず…なんて聞きました。(ちなみにそのなごりで我が家は未だにC新聞。そもそも新聞購読自体もう不要なんだけど。先日、Y新聞が勧誘に来たときにぐだぐだとC新聞と天秤にかけろとうるさかったが「巨○軍を含むYグループが大嫌いだから」と言ったらすごすご帰って行ったよ、あの悪名高いY新聞の勧誘員が。)
閑話休題、ここで図書館資料の話。図書館には良書(のみ)があるという世間の認識は、いつ頃に生まれたものなのか興味深いところですが(公共図書館に対しては『市民の図書館』以後、大衆化してからじゃないのかなぁ…と漠然とは予測しますが、すみません調べていません)、公立図書館の場合は税金で買っているんだから、変な本、間違った本はないだろう(これが過ぎると時々出てくる「こんな悪書を税金で買うなんて」になる)という世間一般の思い込みから、あるいは利用者を増やすために無難な本を図書館がお勧めしてきたから、あたりでしょうか。
うーん、前にも書いたけど、図書館が選書をしているのはただ「お金がないから」なんだけどね。別に選書は図書館の権限や権威の源泉でもなんでもないんだけど、どうも公共図書館員でも勘違いしている輩が多い気がするなぁ。普通の公共図書館であれば、どんな本でも全て買うのが理想で、金がないから絞り込んでいる、ただそれだけの行為なんですよ、選書は。選ばざるを得ないなら、結果としてできるだけ正確な情報が多く得られるように構成せざるを得ないだけであって、俗悪本(最近はそうでもないがマンガも含む)やトンデモ本の類は外さざるを得ない(くどい?)ということです。先々月のNHK『爆笑問題のニッポンの教養』で、太田が国立国会図書館はエロ本も収集しているの?と長尾館長に食いついてて笑ってしまいましたが、NDLは購入ではなく納本収集であるにせよ、これも図書館は良書を収集するものだという一般的な認識が現れた言動なのでしょう(しかし実際にはNDLも俗悪本の収集率は悪いとな。最後の砦なんだから、もう少し本気で収集して欲しいんだけどなぁ…)。
だからこそ、選書のプロセスで図書館側が「これ面白いよ」「これお勧め」「これ読め」と色付ける意図は、実は意識的に排除しなきゃならないんですよ。そうでないと、今回の記事のような意見に対して対外的に自分たちの行為を弁護できなくなるんだけど、そんなこと多くの公共図書館が分かっていないよなぁ、きっと。これは典型的な「図書館の自由」の問題なんだけど、上記で指摘した勘違い図書館員は「図書館員の自由」と更に勘違いしていて、市民の自由を笠に着た「図書館員の選書(あるいは廃棄)の自由」を主張しているだけなんだよね…。
ちなみに、JanJan記事では右系本を市立図書館がお勧めしていたと言ってますが、入口近くの最近返却された本のコーナーを勝手にお勧めと勘違いしているだけじゃないかなぁと思います。だって、市立図書館にそんなものをお勧めする「度胸」があるとは到底思えないから(笑)。理想論だと分かって書いちゃいますが、そもそもどんな本であれ、公共図書館で特定の資料をお勧めするなんて、自分の首を絞めるだけなんですけどね。うちの市民は自分で本を選べない、メディアリテラシーが低いんですよと公に認める行為なんだから。誰かに勧められることを受け身になって待っている人が世間には多いという現状はありますが、こと公共図書館に限って言えば、それは過去に大衆化路線を取った対価としても、ちゃんと市民のメディアリテラシー養成を図書館がしなければならないでしょうに、そういう課題を認識している公共図書館がどれだけあるのか、ということです。適当に面白そうな読み物をお勧めして貸出が増えた、よかよか、で終わってるでしょ、結局貸出至上主義に染まって脱却できていないから。お勧めするにしても、貸出を増やす、来館者を増やすという薄っぺらな目的以外の意図をもって、資料を選ばなきゃ。図書館として利用者を、市民をどうしたいのか(もちろん思想善導的な意味じゃないよ)、そういうビジョンがなければいけないし、そうでないと図書館そのものも更に窮地に陥っていきます。
最後に、記事のように自分と対立するものを排除させるということは、特に特定の主義主張に傾倒している人たちにとっては、自分自身のレゾンデートルの消失を意味する行為なのにね、といつも思います。本にしても「悪書」があって「良書」が存在する訳で、どこに価値判断を置くにせよ、悪書が悪書たらん、即ち良書が良書たらん理由は、悪書を読んで確かめないことには全く理解できないという、当然の原理が分からないのだろうから、真っ先にこういう人達をどうにかするのが図書館の役割ではないか、そんな気がします。(そもそも、自分たちの認定した悪書に対して他人が金をつぎ込んでほしくないのであれば、尚のこと図書館に購入させて皆が読めるように、どんどんリクエストすればいいぐらいなのですが(笑)。)
是非、図書館は「悪書」を(軟らかくするなら「も」)もっと収集されたし。図書館が中立であるということは、端を切り捨てるのではなく、全てを含むという意味なのですから。冒頭のように外部から攻撃されたときだけ、埃まみれの「図書館の自由」を奥から出してきて振り回しても、偏狭者のみだけでなく、だーれも説得なんてできませんよ。
・タウンニュース「山内図書館 有隣堂への委託決定」 (2009.12.17)
記事にもあるように、書店が図書館の指定管理者になることは普通にあることで、TRC以外の指定管理者としては、業種的には最も多い…かな。
しかし、この記事を読んで?と思ったのは、指定管理者によって「レファレンスの専用デスク設置」が予定され、また綾瀬市立では既に「ボランティア活動の充実や図書館の書庫見学などの企画で市民から好評を得ている」というところ。これらの実施は、実は直営の方が相当有利な事項であると思うのですが、これが民間の指定管理者による成果になっている、と捉えられます(この記事だけで断定できませんが…)。
私は、書店を指定管理者に指定するのは、公共図書館は本貸し業であるからして、新刊本流通と販売のノウハウを、図書館の新刊購入と貸出業務に活かしてちょうだい、というのが行政・首長・議会・住民の意図であると理解していたのですが、どうやら公務員有利の業務まで現状維持どころか「改善」しているということなのでしょうかね。
そうなると、直営派から「人件費の削減により、優秀な司書を安定的に確保することが難しい」と言われてもさ、環境的に相当ハンディを背負った分野でも指定管理者に負けた「優秀な司書」達は、何が「優秀」だったん?となる訳で。新刊以外の資料収集?取扱に慎重を期するような資料保存?…違うね。彼らは新刊本を社会の人気に基づき購入し、何の工夫をしなくとも貸出予約が集中する本のバーコードをPCに読ませ、賞味期限が切れたら本を捨てる、それだけしかしていないかったんだよね(←あえて単純化して悪意を持たせていますが、概ね合っているかと)。そりゃ、書店にとって代わられますよ。
いつもの繰り返しですけど、公共図書館って何?のそもそも論から話を戻し、それ以外の機能に目を向けない限り、直営維持は部分的にもありえません。指定管理者制度導入の検討にも、少なくとも直営有利な業務ぐらいは仮想(敵?)の民間業者に圧勝とならなければ、直営なんて望むべくもないですよ。まして負けなんて論外、もうお金貰ってするレベルの仕事ですらないんじゃないでしょうか。本屋は本屋でも、古本屋と勝負しなきゃ駄目なんじゃない?…というのは、冗談とも本気とも言えない戯言ですが。
「読書は…」という釣り気味エントリのそもそもの発端は、公共図書館の「指定管理者制度反対」論で語られる公共図書館像って、情報集積機能(資料の収集・ストック機能など)やレファレンス機能がすごく発達してて、その公共性を論拠にして反対論を展開しているのに、そういう話の出てくる公共図書館に限って実は貸出ばっかじゃないの?という素朴な疑問から。
なんというか、業界の理想論の二面性って言うべきなんですかね?直営時代は貸出至上主義を信奉してたくせに、いざ指定管理なんて話になると「いや、公共図書館は無料貸本屋じゃないんですよ」って急に理想論に手のひら返すという不思議さ。下手すると、指定管理者をその方向から非難までしちゃうという。これが作戦的な裏腹ならいざ知らず、どうも本人さんたちはその変貌すら自覚がない始末。じゃあ、それで貸出至上を否定するかというと、直営である限りは「市民の要求」を振りかざしてそのまんま。
訳が分からないので、とりあえず、ベストセラー貸しの理由を問うてみたかったのですよ。別に納得できる回答は期待してませんけどね…
それと、何故無料なのかという点も。例えば今の日本だと、下水道が普及して本管が家の前に敷設されると、法的な強制力をもって家の排水管をその本管に繋がされますが、その費用は個人持ちなんですよね、受益者負担という考え方で。もちろんその後は下水道料金も払い続けます。排水を下水道を通じて処理するということは、利用者の家内環境そのものが向上することはもちろんですが、それ以上に環境面から考えれば非常に公益的なはずです。が、強制的に下水管に接続させられる上に、その費用は自分で払うんですよ。そういう意味で、下水道管に接続すること以上に、図書館でのベストセラーの貸出は公共性があるということでなければならないのですよ、社会制度的には。で、その説明、今の図書館業界はできますか?
(11/3、一部修正)
今更何をと言われそうだし、それでも自分で納得する結論が未だに得られていない話なので、長文のわりに最後まで読んでもすっきりしない、そんな話です。
「公共図書館は何故、無料で資料を貸しているのか?」
…あんた、ほんとに司書資格持ってる?図書館法って知っている?ってつっこまれそうなお題。
いや、法律論とかを聞いているのではありません。図書館法や著作権法のことは一応、知っておりますから(笑)。
当たり前の話ですが、公共(ここでは=公立としておきます)図書館は、税金で建物を建て、人を雇い、施設を維持しながら、本を中心とした資料を購入し、それを無料で貸している施設です。貸出以外の機能は、そのレゾンデートルを自分は認められますので今日はパス(図書館業界ではそうでもないけどね…)。で、貸出も公共サービスですので、当然このサービスには「公共性」というものが無ければ成立しないですよね(公共図書館の公共性もいつも議論してますけど、今日はもうちょっと俗っぽく話をしたいのです)。
さて、学術的であるとか専門的であるような資料は、個人で買うのはどうよという価格をしていたり、それを利用した調査研究が世のためになる(かもしんない)という点で、まぁ納得。
自己啓発本やビジネス書は疑問がない訳ではないが、個人で購入するよりも貸出することにより、より多くの市民が読むことになり、市民の資質向上に繋がる…と無理があるけど何とか納得。
じゃ、ベストセラーはじめ文芸書はどうなの?そりゃ、上質な日本語に触れるとか、読書は教養になるとか、よく言われているんだけど、何か釈然としないんだよね。児童書はともかく、大人の図書館から借りた本の読書って、本当に本人の教養なり自己研鑽に結びついてるか?というか、単なる娯楽提供じゃね?というか。ここを突き詰めていくと、公共図書館資料=良書論にしか行き着かないが、そりゃ大きな間違いだし。まぁビデオやDVDの貸出の場合は更にそんな気がするんだけど、あれらは貸出用資料の購入時に著作権料的にお金払っている点や、最新のものは貸出できないというルール上に成り立っているので、まだ納得できるんだよね。本は個人用定価で買って無料で貸し出すから、著作者や出版社が怒っているし…うーん。活字を読む場合と映像を観るのでは、同じ物語でも想像力が違うでしょ、だから読書は素晴らしいことなんだよ…的な論もなんだか怪しい気がする。もちろん、絶版本なんかを図書館から借りる的な場合は、公共性がよく分かりますが。
つまり、「文芸書的資料の貸出」に対する公共性が一番分からないし、そのよくある理由説明(読書=絶対善という価値観)にしても、結局、活字媒体だけ特別扱いである理由が分からないのです。
要求論に対する単なる批判をしたいのではないのですが、所得制限もしないでバラマキという民主党への批判を見ると、関係はないけどいつもこの公共図書館のことを毎度毎度思い出すのです。民主党はともかく、公共図書館がもっと利用されなければという危機にさらされている時に、いずれこの話は大きく湧いてくると思うんですよね、行政サイドから。だから公共図書館を貸出機能から考えてはいけない、と思っているのですけど、何だかこれ以上うまく言えない…
以上、読書週間まっただ中に、かなり挑戦的かつ支離滅裂な思いつきエントリでした。でも、本気でだれか税金を使って「公共図書館がベストセラーを無料で複数冊買ってどんどん貸し出し、ブームが去ったら本を捨てて」も、図書館利用者以外からの苦情が顕在化していない本当の理由を分かりやすく教えてください。