No.606の記事

県立図書館のピークはいつなのか?

 ・中日新聞 「県図書館、寄贈の雑誌に広告掲載 財政難でスポンサー募集(岐阜)」(2010.5.13)
 ・毎日新聞 「県立図書館:25雑誌の購読停止 予算大幅減、県内で読めぬ懸念 /福島」(2010.5.15)

 県立レベルであっても、まともな経営感覚が欠如して財政を悪化させた県は、財政健全化に託けて図書館の資料購入費を恐ろしいほど削減している。これに憤りを感じている人には是非、県は一体何を削り何を残しているのか、県全体の財政をよく見ていただきたいが、記事にある県だけではなく、一般論に広げてもよいほど金のない県は共通的に図書館の資料費を実に簡単に削っている。

 理由は、ひとつは図書館運営には国の補助金が入らないから(地方交付税交付金の算定基準として図書館の項目はあるが、それに基づく交付金の使途は限られないので、図書館に使うかどうかは自治体の判断一つ)、ということ。財源の補助がない県単独事業はとにかく簡単に切りやすい。

 あと、これは上記の理由より大きいか、小さいかは一口には断言できないが、当局(役所)や政治側に、県立図書館の資料費を削減することに抵抗がないことが挙げられる。当局はともかく、一昔前なら政治的には利用者からの反発を恐れていた部分があろう。確かにここ10〜20年で県立図書館は政治的な道具として各地で新館が完成し、その際に資料費も旧館時代から一気に増額され、年間予算で億を超すところも出てきた結果、しばらくは政治家の人気取り策に貢献してきた。しかし、昨今の財政状況の悪化と指定管理者制度の導入を当局よりちらつかされた結果、県立図書館は貸出至上主義及び単館主義からの脱退を余儀なくされ、ようやくレファレンスサービスやビジネス支援などへの転換を標榜するようになりつつあるのが現状だ。しかし、皮肉にもこの市町村立図書館との分化方針が当局に都合よく利用され、県立図書館の資料費がジリ貧にさせられたという面があると思われる。

 福島県のように気まぐれ的に資料費を増減させている例は、県立図書館の資料費変動により将来の県立図書館の書庫で何が起こるかを、当局は(と経緯によっては図書館自身も)何も想定できていないことを、典型的に示しているだろう。所詮、急ごしらえでレファレンスに看板を掛け替えたところで、長年にわたって県立ですら自ら染みつかせた「無料貸本屋」のイメージは、当局、政治家、利用者、県民から簡単には払拭できないのである。政治的利用により発展した県立図書館が、後にこのように(予算的に)簡単に叩かれるのは、政治的利用に翻弄された部分で同情がないでもないが、結局は図書館自身が政治的な方向に同調しすぎて「無料貸本屋」であることが使命であると信じて疑わなかったからに他ならない。実につまらない構造である。

 これは県立図書館が市町村立図書館ではなくなっただけの面で捉えられた故の悲劇である。県立図書館といえど、当局には図書館資料のフローは「購入→貸出→廃棄」でしかなく、しかもその期間は短期間である、つまり資料は純然たる消耗品でしかないと捉えられていたため、このうちの貸出、しかも新刊の貸出を重視しないという方針転換を県立図書館自ら行えば、当局はその前段の購入を喜んで削減するのは当然の帰結である。本来であればその先にあるはずの、県立図書館としての機能(資料面で言えば、県内市町村図書館の図書館としての資料保存機能、レファレンスサービス充実に見合う資料充実など)は、時間的制約があったとはいえ、県立図書館からの提示が弱すぎて、当局に取りあえげて貰えなかった(意地悪く言えば敢えて無視された)のである。これは、(自己反省も含めて)県立図書館側が「足りなかった」としか言いようがない。

 記事のような資料費削減による影響は、現時点では新刊本や雑誌の購入が少なくて利用者から不満が出る程度で、入館者数や貸出数が簡単に落ち込むだけのことだとは思うが、最も危惧するべき影響は10年、20年後になって書庫資料の欠落や大きな断層が数多く生じることである。もっとも、ここを危惧できる人の割合は、新刊本や雑誌がないと県立図書館からそっぽを向く人の割合よりもはるかに小さい。そこが最大の問題である。

 しかし、図書館とは(新館を含めて)設立された時がピークであとは下がる一方であるような運営をされる施設ではないはずである。少なくとも良い図書館を創るということは「時間と予算と人力をかけて徐々に成していく」ことであって、「短期的予算で簡単にできる」ことではないという事実は、図書館側の人間が強く発信していかなければならないことだが、果たしてそれを理解できている図書館人は現在何人いるのだろうか、甚だ心許ない。博物館、美術館も同じだが、日本では見渡す限り、最初に建物が建設された時がピークである公立図書館、博物館、美術館が大半である(安易に新しいもの好きの国民性と結びつけたくはないが、作り手側の状況として土○屋行政に偏重している特徴とは大いに関係しているような気はする)。ともあれ、この種の施設は「醸成」させていくという発想、またそれによりピークは作り続けていくという発想がそろそろ必要ではないだろうか。