No.580の記事

図書館資料から権威を排除しようよ

 ・JanJanニュース 「公共図書館の中立性は保たれているか」 (2009.12.26)
 ・日本禁煙学会HP 「タバコ礼賛「たくさんの不思議2010年2月号」の不当性について」(注)Word文書 (2009.12.27)

 世の中には、新聞やテレビなどのマスコミの報道や情報を、ものの見事に鵜呑みにする人たちが結構います。マスコミは自主的に倫理規定などを設けて事業を実施しているため、トンデモ情報が流布されることはインターネットなどと比較すれば非常に少なく、また各社はそれにより概ね信用を得て成り立っているという構図がありますので、確かに視聴者や読者がそれを丸呑みするということも、大きくは間違っていないかもしれません。

 しかし、例えば産経新聞と朝日新聞、フジテレビとテレビ朝日のように、同じ全国レベルのマスコミでも、特に社の主義主張を反映した報道では、同じネタでも正反対な視点で正反対な評価をしていることは、往々にしてあります。明らかな誤報や情報操作は別として(本当は、そういう事はよくあるという前提で見聞した方がいいけど)、どちらがより正しいとか好きとかは個人の問題です、そんなものは。しかし、恐ろしいことにこういう差異が存在するということ自体、認識できない人たちがいて、また認識できるレベルに達するとその差異が許せない、即ち自分の主義主張に合致したもの以外は存在を認めないと思うようになる人たちが出てくるのです。これは偏った思考の人たちに顕著なんですが、それは自分が偏っているからこそ、それ以外の幅が広くなるだけの単純な話だと思います。
 また、これよりは弱いですが、マスコミ権威論と同じ構造が本という出版物にもあるようで、製本されて一般の流通に乗ったものは内容が正しいと思いこむ人もいるようです。これも本を作るというハードルが正確性を担保していると言えなくもないですが、実は大したハードルではないことは、ちょっと知っている人なら常識ですね。

 で、これを複合して悪用していたのが新聞に「○○でがんが消えた!」系の本(バイブル本というらしい)をばんばん掲載していた出版社で、新聞の権威を広告費という金で買うという構図です(あまりにひどくて数年前に某社役員が逮捕されてからは沈静化したんだけど)。こんなん、金出せば全国紙でもほぼ掲載される類のもので、新聞社による内容審査なんて皆無だと知っていれば、権威もへったくれもないのですが、これが意外と○○新聞に載ったからいい本、正しい本なんだと信じる人が存在して、正しいものとして売れたりするんです。

 図書館員や書店員の経験談だと、こういう人たちっていきなり
「今朝のC新聞(←特に東海地方だと絶大な影響力を持つ日本一の地方紙)に載ってたあの本、欲しいんだけど」
と問いかけてきて、タイトルや出版社を尋ねるとうろ覚え、メモしてくるとか新聞を持ってくるということは100%なくて、でもちょっとそれでは特定できないんですが…などと言おうものなら、
「あんた、書店員(図書館員)のくせに、新聞も読んでないの!」
と激高するらしい。あぁ、恐。書評欄ならいざ知らず、広告欄のうさんくさい本なんて知りたくもないわ、と言いたいところでしょうが、書店員の場合は商売だからそうとも言えず…なんて聞きました。(ちなみにそのなごりで我が家は未だにC新聞。そもそも新聞購読自体もう不要なんだけど。先日、Y新聞が勧誘に来たときにぐだぐだとC新聞と天秤にかけろとうるさかったが「巨○軍を含むYグループが大嫌いだから」と言ったらすごすご帰って行ったよ、あの悪名高いY新聞の勧誘員が。)

 閑話休題、ここで図書館資料の話。図書館には良書(のみ)があるという世間の認識は、いつ頃に生まれたものなのか興味深いところですが(公共図書館に対しては『市民の図書館』以後、大衆化してからじゃないのかなぁ…と漠然とは予測しますが、すみません調べていません)、公立図書館の場合は税金で買っているんだから、変な本、間違った本はないだろう(これが過ぎると時々出てくる「こんな悪書を税金で買うなんて」になる)という世間一般の思い込みから、あるいは利用者を増やすために無難な本を図書館がお勧めしてきたから、あたりでしょうか。

 うーん、前にも書いたけど、図書館が選書をしているのはただ「お金がないから」なんだけどね。別に選書は図書館の権限や権威の源泉でもなんでもないんだけど、どうも公共図書館員でも勘違いしている輩が多い気がするなぁ。普通の公共図書館であれば、どんな本でも全て買うのが理想で、金がないから絞り込んでいる、ただそれだけの行為なんですよ、選書は。選ばざるを得ないなら、結果としてできるだけ正確な情報が多く得られるように構成せざるを得ないだけであって、俗悪本(最近はそうでもないがマンガも含む)やトンデモ本の類は外さざるを得ない(くどい?)ということです。先々月のNHK『爆笑問題のニッポンの教養』で、太田が国立国会図書館はエロ本も収集しているの?と長尾館長に食いついてて笑ってしまいましたが、NDLは購入ではなく納本収集であるにせよ、これも図書館は良書を収集するものだという一般的な認識が現れた言動なのでしょう(しかし実際にはNDLも俗悪本の収集率は悪いとな。最後の砦なんだから、もう少し本気で収集して欲しいんだけどなぁ…)。

 だからこそ、選書のプロセスで図書館側が「これ面白いよ」「これお勧め」「これ読め」と色付ける意図は、実は意識的に排除しなきゃならないんですよ。そうでないと、今回の記事のような意見に対して対外的に自分たちの行為を弁護できなくなるんだけど、そんなこと多くの公共図書館が分かっていないよなぁ、きっと。これは典型的な「図書館の自由」の問題なんだけど、上記で指摘した勘違い図書館員は「図書館員の自由」と更に勘違いしていて、市民の自由を笠に着た「図書館員の選書(あるいは廃棄)の自由」を主張しているだけなんだよね…。

 ちなみに、JanJan記事では右系本を市立図書館がお勧めしていたと言ってますが、入口近くの最近返却された本のコーナーを勝手にお勧めと勘違いしているだけじゃないかなぁと思います。だって、市立図書館にそんなものをお勧めする「度胸」があるとは到底思えないから(笑)。理想論だと分かって書いちゃいますが、そもそもどんな本であれ、公共図書館で特定の資料をお勧めするなんて、自分の首を絞めるだけなんですけどね。うちの市民は自分で本を選べない、メディアリテラシーが低いんですよと公に認める行為なんだから。誰かに勧められることを受け身になって待っている人が世間には多いという現状はありますが、こと公共図書館に限って言えば、それは過去に大衆化路線を取った対価としても、ちゃんと市民のメディアリテラシー養成を図書館がしなければならないでしょうに、そういう課題を認識している公共図書館がどれだけあるのか、ということです。適当に面白そうな読み物をお勧めして貸出が増えた、よかよか、で終わってるでしょ、結局貸出至上主義に染まって脱却できていないから。お勧めするにしても、貸出を増やす、来館者を増やすという薄っぺらな目的以外の意図をもって、資料を選ばなきゃ。図書館として利用者を、市民をどうしたいのか(もちろん思想善導的な意味じゃないよ)、そういうビジョンがなければいけないし、そうでないと図書館そのものも更に窮地に陥っていきます。

 最後に、記事のように自分と対立するものを排除させるということは、特に特定の主義主張に傾倒している人たちにとっては、自分自身のレゾンデートルの消失を意味する行為なのにね、といつも思います。本にしても「悪書」があって「良書」が存在する訳で、どこに価値判断を置くにせよ、悪書が悪書たらん、即ち良書が良書たらん理由は、悪書を読んで確かめないことには全く理解できないという、当然の原理が分からないのだろうから、真っ先にこういう人達をどうにかするのが図書館の役割ではないか、そんな気がします。(そもそも、自分たちの認定した悪書に対して他人が金をつぎ込んでほしくないのであれば、尚のこと図書館に購入させて皆が読めるように、どんどんリクエストすればいいぐらいなのですが(笑)。)

 是非、図書館は「悪書」を(軟らかくするなら「も」)もっと収集されたし。図書館が中立であるということは、端を切り捨てるのではなく、全てを含むという意味なのですから。冒頭のように外部から攻撃されたときだけ、埃まみれの「図書館の自由」を奥から出してきて振り回しても、偏狭者のみだけでなく、だーれも説得なんてできませんよ。