図書館

公共図書館が国会図書館に滅ぼされる日

 例えば、国会図書館が蔵書すべてをデジタルアーカイブ化し、それを有料でネット貸出(配信…と言うべきかなぁ?)することを実現したとしますね。

 さて、公共図書館はどうなるのか?…おそらくは、パソコンが使えない住民のために、PC数台と若干の職員を残して、あとは建物ごと消滅するのではないでしょうか。
 まぁ、実際これに向かっているらしい国会図書館が、あまりに単館主義(自分達の発展だけ考えて、国全体で図書館がどうなるかを考慮しない政策の進め方)だと論じることも私は必要だと思いますが、それはそれとて、ほとんどの公共図書館にとって、この方向は、やれ選書論だ、指定管理だという現在の議論はまったく無意味なものとなりかねないぐらいインパクトがあるはずですが、そういう目で事態を見ている公共図書館員がどれほどいるのでしょうかねぇ…自らの失業の危機的に。

 行政的に考えて、国が場所を問わずに一律でかつ低額でサービスを提供する環境が整えば、市町村や都道府県は大枚はたいて図書館を自前で運営する根拠がなくなります。地方の図書館業務は、せいぜい住民に対してコンピュータリテラシーの涵養と、それでも対応が難しい住民用に支援をする程度かな、と。

 こういう意味で、図書館が紙メディアのみに固執することは大変危険な状態になっているし、では地方の公共図書館がそれでも存在する運営というものは何なのかを導き出し、今からでも実践しなければならないと思います(ただし、それは存続目的での転換はなく、将来予測を挟んだ上で現状に足りないものの補充であると考えます)。

 それがどういう方向であるのか…は、各図書館員でまずは考えてみてください。もちろん、私が全ての答えを持っている訳ではありませんが、少なくとも、ここでいきなり貸出がどうとか、読書がどうとか言う時点で間違いだとは思います。貸出ありきでは、国会図書館に簡単に滅ぼされますよ。何しろデジタル貸出なら複本問題も予約問題も発生しませんし。

 ちなみに、本当に国会図書館が公共図書館を上記のプロセスで滅ぼしてしまった場合、たぶん出版界もごく一部のベストセラー作家と出版社のみが得をするだけで、大半の作家・出版社は食っていけなくなり、出版界も衰退の一途だと思います。それも、国会図書館のデジタル貸出に対して法外な権利料を要求すればするほど顕著に。この辺りのごたつきで、本当は近々は実現しないと踏んでいるのですがね、個人的には。

レファレンスは誰がどう対応するべきか、という問いなのでは?

 ・読売新聞「図書館相談 まるでクイズ…「大阪府民やり過ぎ」知事苦言」(2009.9.25)
 ・朝日新聞「図書館が受ける「高度な」質問とは?」(2009.9.26)

 これらの記事に対する反応を大きく分けると、図書館関係者の「レファレンス対応は重要な図書館機能であることを橋下は理解していない」というものと、ネット住人たちの「そんな質問は自分でググれ、ぼけ」というものの2つでしょうか。

 まず、どんなくだらないレファレンスにも公共図書館は対応するべきだ、という図書館をよく知る者の意見については、確かにその通りだと私も思います。現場にいたときに、まるで秘書相手のようにくだらぬ質問を自分で調べることなく頻繁にメールレファレンスする利用者がいて、いい加減にしろよと思ったことはありますが(調べ方を教えても自分で何とかしようという気がまるでないのが余計にね)、情報検索スキルは個々様々であることを前提として、基本的にはレファレンスは全て受けるべきです。

 ただ、今回の橋下知事の意見も、行政的観点ではありえる意見であるとも思います。対応が高コストであるレファレンスの内容がこのように「しょうむない」(シロウト的に、という意味で)のであれば、何故府立がそれを引き受けなければならんのか、という意見。これ、例えば資料収集では市町村立・県立・国会図書館の役割がゆるやかながら分化されているのに、レファレンスではどうだろうか、という問いに変換できるのではないでしょうか。もちろん、レファレンス対応とは原則、収蔵資料紹介な訳ですから、収蔵資料構成によってその役割はある程度分化できるでしょうが、例え収蔵資料になくても、ネットやデータベースで簡単に答えられるレファレンスは誰が対応しなければないのか、反対に言えば府が対応すべきではないという意見に反論する根拠はないのではないでしょうか。
 もちろん、そんなの府の身勝手以外の何ものでもない意見ですが、でも府立とは何かという問いとしては少し的を射てる気がして、貸出からレファレンスに路線変更すれば「これからの図書館」として生き残れるという考えだけでは甘い、レファレンス対応の根拠と中身も再考しなければという認識を関係者は持たなければならないでしょう。

 最後に、レファレンス対応は答えを出すクイズとは違うということは、強調しておかなければならないでしょう。あくまで所蔵資料を紹介するもので、しかも出典の正確性や信頼性も含めての対応なのです。それこそネットの知恵袋との違いなのですが、これは利用者がどのレベルの回答を求めているかの問題なのです。とりあえずの回答で満足なら、知恵袋で対応させてもいいでしょうし、それ以外でも利用者が自分でネットや所蔵資料を調べられるようにスキルを伝えることも公共図書館の重要な役割だと思います。その1つとして、レファレンス対応のプロセスも利用者に回答して、それほど高度でないものは今後は自分で探すというスキルを身につけさせることも必要なのではないでしょうか。図書館は単なる知恵袋ではないのですから…

不況による図書館利用増、資料費減の対応方法を考えたい…が時間がない

 最近、新聞報道などで不況により図書館利用増(ただしその大半は貸出冊数増加を意味している)という記事を散見します。またその一部では、不況により資料費などの予算削減の現状も併せて掲載されています。
 さて、この状況下で、図書館としてはどう対応することが望まれますか?次から選び、その理由を選択肢以上に詳細に述べなさい。(配点:全て)

1.不況により大きくなった利用者のニーズは、ベストセラーなど過去は個人購入により賄ってきた部分であるから、図書館は少ない予算の中からこのようなニーズを満たす運営(資料収集など)を目指すべきである。

2.不況といえども、図書館が果たすべき役割を鑑みれば、1のようなニーズを満たすことは適切ではないため、少ない予算は専門的な資料収集などにシフトした運営を目指すべきである。

3.その他(選択肢を含めて述べること)

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ここにおける自分のスタンスについて

 私は元図書館員であり、現在も行政側の人間である。
 従って、公共図書館を論ずる際には、(「あえて」も含んで)相当にリアリスティックに話をする。特に昨今の地方財政の逼迫は肌で毎日感じているだけあって、予算、設備、人員の裏付けや現状を相当程度無視した議論というものに接すると、実は個人的には相当鼻白んでしまう。

 当然これは個人的な立場という話であって、他の理想論に徒に冷や水を掛けて面白がる趣味もないし(反対に自分の現実論に対してただただ高圧的に水を掛けられるのもできれば止めてもらいたいとは思うが、それは相手のある話なので個人的感想に止めておく)、でも自分がいつも見落とす高所からの諸意見は時に感心させられる。だから、こうして細々とブログにいたずら書きをしている。

 異見を交え議論が活性化し、時に双方が及ばなかった域に達することがあればいいと思い、私は上記のスタンスで話をする。非常に偏った意見であることは承知しているが、特に公共図書館論においてこれを主として論ずるアカデミズムと現場の距離が大きすぎること、また現役司書の至極真っ当な意見が専門誌やネット上であまりに少ないこと(真っ当でない意見ばかりが大手を振っていて、恐らく真っ当な司書は書く暇がないのだと思う)、更に現役司書にしても行政的なリアリズムがないことが往々にしてあり、少しは妙に図書館に詳しい行政職員からの意見に希少価値があるのではないかと考えているからである。

 私はリアルでも口が悪く、よく他人を無駄に怒らせるので、ネットでも意図せず他人を攻撃していることもあろうし、同じだけ他人からの攻撃にも敏感なのかもしれない。所詮はネット上でのおつきあいなので、良くも悪くも距離を置くことにはしているが、なかなか適切な距離感は掴めない。これが自分の最重要課題。

 ちなみに、私は相当なペシミストでもあるので、上記のリアリズムと相まって実に夢のない、融通のない意見が多いが、こと公共図書館に関しては根拠のないオプティミズムと歪んだイデアリズムが蔓延した結果が今の衰退だと思っているので、公共図書館の生き残りに対してはこの姿勢で臨むことは変えない。

公共図書館の自習禁止は絶対条件ではないが、不合理な事でもない

 某所で、図書館業界人が公共図書館での自習禁止に対して、感情的に擁護しているような話がありましたが…

 私はユーザとして、地元の県立図書館(一応、自習禁止)で自習者に対して時に憎しみを持ちます。試験期間の土日や長期休暇後半に、どうしても県立でないとという調べ物で来館する時です。基本、でかい、重い禁貸資料を閲覧・コピーで利用するのですが、どこをコピーするかを調べるために数分本を広げたい…が、自習者で満席なのです。腹立ちますよね、当然。自分はここでしか利用できない資料を数冊、ちょっと広げて読みたいという正当なる図書館ユーザなのに、なぜ図書館でなくてもよい自習者により窮屈な思いをせなあかんのか、と。
 ということで、私は別に元業界人としてのみで禁止を擁護していません。(一応、元職員としては、特に高校生の自習者が色々問題をおこすことが多くて、何故図書館ユーザでない者が引き起こした問題解決に尽力せにゃならんのだ、という個人的思いもあるにはあるが…)

 でも、別にどこの図書館もすべからく自習禁止にはしなくてもいいと思ってます。例えば私も地元の市立図書館では、概ね席が空いてるのでこういう苦労はしません。また、館のキャパに対して人口や来館者が少ないところでは、とにかく図書館に来てもらうことがプライオリティである館もあるでしょうから、こういう所は大いに自習しに来てもらえばいいんです(市町村支援で各地の図書館・図書室を見てきた経験からの意見)。ただ、来館者増えたで終了では何の意味もありませんが。

 まぁ、つまり図書館は地域性を十分勘案し、図書館の本来ユーザを圧迫するか否かを各館、判断しておくれ、と。あと、満席になったら退席を促すが理想でしょうが、そうもいかないので最初から自習禁止を掲げる図書館に対して、むやみにけしからんと責めるのはいかがなものかですが。常に自分の意見だけが正しいという態度は、図書館関係者は特に慎むべきです、自省も含めてですけど。

品切重版未定のおすすめ資料

 先日、『ダ・ヴィンチ』を読んでいたら、役所広司のお勧め本が品切重版未定の本で、普通の商業誌なら別の本にしてくれと言うところでしょうが、雑誌の方針か役所広司に物言えずかは分かりませんが、ともかく普通に書店では新刊本が買えないであろうものが載っていたのです。
 『ダ・ヴィンチ』に限らず、多少そういう場面で出くわすのですが、その度に図書館が書店購入不可フェアを展開すればいいのに、といつも思うのですが、残念ながら一般の市町村立図書館では品切や絶版の資料所蔵状況が芳しくないかもね。そもそも芳しくない図書館はそんな発想は出ないか…公共図書館って何なのかが分からん図書館ですからね。

県立図書館は「中間自治体」立であるので

 年度の変わり目で少々更新間隔が空いてしまったので、生存確認のためにメモ的エントリ。一応、専門(?)の県立図書館ネタということですが、資料調査も時間的に厳しいので、とりあえずの感覚メモですが…

 最近の県立図書館はどこも運営的に厳しいようですが、ここに至るパターンとしては、大きく「1 バブル(ITバブル含む)期建替型」と「2 バブル期非建替型」に分けられるのかなぁ、と考えています。

1の場合、
 バブル期の建替に際し、旧来の県立機能の放棄、直接貸出の重視、ホール・会議室など施設としての多角化に向けた建物設計と予算・人事配置
 ↓
 オープンからしばらくは来館者・貸出冊数増で好評を得るものの、経年による飽きと資料費等の圧縮で徐々に先細り
 ↓
 県が財政難に直面、無料貸本屋に多額の運営費を費やす(と当局に認識されている)図書館に対し、指定管理者制度を含む財政的圧力が鮮明に
 ↓
 しかし、近年の利用者減少傾向からも激しい予算削減を飲まざるを得ず、方向を見失う
 (例)徳島県立図書館(先般の新聞記事によると徳島市立よりも資料購入費が少なくなったとか…)

2の場合
 バブル期に建替を逃す
 ↓
 旧来の運営方針のまま、建物の老朽化が進むと共に、また、資料収蔵スペースの狭隘化に悩まされストック機能が果たせなくなる
 ↓
 新館建設のような予算増加のきっかけもつかめぬまま、利用が低調のまま財政難を迎える
 ↓
 利用の少ない公共施設として当局から突き上げをくらうも、少額予算と老朽化した建物では改善策も見出せず、方向を失う
 (例)長崎県立長崎図書館

 いずれも困った状態に陥っていることに違いはないが(この状況からの脱出を図っているのが1のケースだと鳥取県立図書館、2のケースは…どこかな?)、1はバブリーな建物設計により維持管理費と、司書を大量採用している場合は人件費が嵩み、2は建替も望めず予算も1よりも少ない点で、それぞれ苦しんでいることでしょう。

 県立図書館としての機能(市町村立のバックヤード機能など)を考えると、運営方針は2の方がまだ残っていると考えられるが、残念ながら資料のストック場所の問題で物理的に機能が果たせず、結局1も2も不十分…という気がします。

 あまり司書には意識しにくいかもしれませんが、行政改革的視点で県立図書館を厳しく見ると、「何故県が図書館を運営しなければならないのか」という命題にぶち当たるはずです。国-県-市町村という繋がりが(上意下達的には)緩やかな公共図書館という分野では、県立図書館の存在意義が当局には理解しにくいと思います。まして1のように県立としての機能を一旦放棄して直接貸出による利用で存在意義を示してきた館では、この題に答えることは難しいでしょう。何せ県庁所在地に県立があるとして、その周辺の住民にばかりサービスする理由は県にはないのですから(長崎県立は長崎市立が最近できたということですが、基本的に県庁所在地の市立図書館はある程度立派であると考えると、そこでのサービスは偏在的な二重行政と考えられる)。ここで、某県立のように(来館者・直接貸出数の増加のみを狙った)運営の市立化を目指すと、遠からず当局からの上記指摘で頓挫すると予想します。県は国と市町村の中間自治体であるという立ち位置を、県立図書館としても意識することが、昨今の財政難によって不可欠になっているのです、きっと。

 訪れたことがないのですが、兵庫県立図書館は明石市立図書館と隣接していて、内容によっては利用者を市立図書館に振るとか。まだ漠然とした案ですが、高知県立図書館と高知市立図書館の建物合同化という話もあります。こういう形態でも生き残れるような運営を、県立図書館は模索していくしかないのではないかと、最近は考えています。

「公共図書館のボランティア的運営は…」のコメント

 「公共図書館のボランティア的運営は…」にいただいたコメントに対してのエントリ。直接的な返事とはならないかもしれませんが…

 アメリカをはじめ海外の公共図書館において、企業・個人寄付や住民主体のボランティア的運営で成功している例があるとして、それはその国において本当に一般的な事例なのか、そして一見成功していると見えるものに問題点はないのか、という疑問があります。私も海外事例についてそれほど多くの文献に当たった訳ではありませんが、いくつか読んだときに一部の事例をオーソライズして礼賛的に書き過ぎているのではないか、アメリカはここまでしているのに日本ではどうだという比較を主眼とするあまり、単なる差異でスルーすべき点まで対極にある部分を殊更に誇張しているのではないか、という印象を受けた事があります。反対に、日本の公共図書館の先進的事例として千代田区立図書館をアメリカで紹介するとして、日本の指定管理者制度は半官半民のいいとこ取りで、アメリカにはない素晴らしい制度である、という結論で締めることは、指定管理者制度の失敗事例や運営的問題点さえ持ち出さなければ十分可能な訳です。またこの不況下において、寄付やボランティアに頼っていた公共図書館がどういう状況に陥っているのか、あまり聞こえてきませんが大変なことになっているのではないかと予想しています(博物館では学芸員の解雇や作品の売却、閉館などという動きがあると新聞記事で見たことはありますが)。寄付についても、アメリカでは公共図書館の中立性がALAの強力な庇護によって確保されているとは思いますが、本当に色のないお金として公共図書館が執行できているのかを現場検証することも必要でしょう。

 ボランティアや寄付的行為を日本の公共図書館にもっと持ち込むことは、私も賛成ですが、それは「一時的な投資」か「ないよりはあった方がいい(言い方が悪ければ「プラスアルファ」の意と捉えてください)」部分、建物や設備の設置や現物資料の寄付、また資料費の上積み、資料整理や補修作業の労力提供などの部分であって、図書館運営の根幹業務に対する人件費や事業費、建物の維持管理費や公共図書館として必要最低限の資料費などの経常経費を外部資金に頼るのは、やはり継続性という点で公共図書館としての体をいずれ成さなくなる危険性が高いと思います。そこまで公が関与しないのであれば、私立やNPO立の図書館として存在した方が自由に制約もなく運営されるでしょう。もう1つは、今の公共図書館運営に関心が高く、指定管理者制度導入に反対する人々に仮に運営を任せたとしたら、どういう事になるかという危惧もあります。

 私は、別に日本がアメリカ的な公共関与を目指さなければならないとは思っていません。税金を納めてなお寄付をすることが当然となる社会でなくても、公が適正な課税をして適正に配分してもらった方が、個人や企業にかかる金銭的・精神的・労働的負担は遙かに軽減されると考えているからです。もちろん「適正」の判定とその確保は非常に難しいですが。ただ、これほど日本の公共図書館において指定管理者制度がクローズアップされているのは、財政難により公共図書館そのものが「ないよりはあった方がいい」レベルで認識されていたことが炙り出されている結果でしかありません。だから、いかなる制度であれ、公共図書館に適正な公的予算が回されなくなっているのであり(財政難と言っても図書館への予算的締め付けが他事業より厳しいのはこの理由)、その状態こそが「日本の公共図書館は貧しい」(もちろん予算的なだけではない貧しさを指す)と指摘したい部分です。自ずと、公共図書館が目指すべき方向はこれではっきりしてきたのではないでしょうか。

 ただし、公共図書館の再興を実現するためには、これからの司書こそ半ばボランティア的に働かねばならないかもしれません。例えば1000万円分の仕事を400万円の年収でしなければならないように。それは先人の負の遺産によるもので、これはこれで若い司書が先頭に立って批判するべきだと思いますが、一方ではそういう覚悟を持って司書になってほしい、間違ってもただ本が好き、図書館の雰囲気が好き、というモチベーションだけで司書になり、今の業界に無批判に染まるか、あるいは諦めて無気力になる者がこれ以上増えないことを、願うばかりです。

公共図書館のボランティア的運営は…

 自身が公務員であるからこその保守的な考え方かもしれない、と自分でも思う所はありますが…

 指定管理者制度により、住民によるNPOなどの団体が指定管理者として公共図書館を運営することは可能ですし、実際にそういうケースがいくつも出てきています。
 もちろん、住民自治という考え方で公共図書館が住民の手で運営されることは好ましいのですが、現実には元館長や職員などが中心となってボランティア的に指定管理者になることで、自治体の財政難を押し付けられているという構図であるケースが多いのではないでしょうか。

 今は、定年orその直前の世代の経験知を自治体が安く買うことが可能ですが、将来のことを考えるとこれは考えなしで非常に危険な状態なのではないでしょうか。
 もちろん、図書館におけるボランティア的活動や住民参加を否定するものではありません。しかし、公共図書館の責務と役割を考えると、本当は図書館運営の中核業務というのは、それで十分食べていけるだけの内容ある業務であるべきだと思うのです(実態として働き以上に給料を貰う公務員が、特に図書館で多すぎるから指定管理者制度万歳という状態になっているのですが…)。今は団塊の世代に余裕があるから格安の指定管理料で済ませられるのでしょうが、今の20〜30代がその年齢になった時、世代的にそんな余裕は絶対にないと思います。普通に労働に対する対価を頂かないと、生活できないのではないかと。

 これから司書になろうとする世代に対して、まともに司書を務めれば適正な報酬を得られるよという体制をとらない限り、少なくとも公共図書館を支えられる人材は30年後には居なくなるでしょう。しかし、努力もしない司書の既得権を論理無く叫ぶだけで、眼前の非正規司書すら放置という業界団体の態度は、本当にどうなんでしょうか…

 住民参加も必要ですが、ではその住民に公共図書館とは何であるか、という知を正しく伝える事は誰の責務で継続していくのかと考えた時に、少なくとも今の日本では、住民のみで運営の公共図書館では出発点から無理、あるいは出発してもどこかでその輪が途切れる可能性が高いような気がします。

 こういう点で、私は根幹業務の直営維持がベターだとは思うのですが、残念ながら司書の専門性を履き違えた某団体は、単なる官尊民卑と保身から指定管理者制度批判を繰り返すばかりで、自省は全くしない、業界が先細りでも知らない、という態度ですから、これからの司書には気の毒でなりません。

 …こんなことを、先日某所で司書になりたいという大学生と話をしながら、自分の身分を隠しつつ考えていました。

公共図書館は敷居の低い行政サービスポイントというアドバンテージを自ら捨てている

 それは公共図書館の役割ではない、という論で、貸出に繋がらないサービスを否定するという流れが、図書館界にはあるようですが、公共図書館は実に敷居の低い行政サービスポイントだという意識が、自らに全くないというのは、非常にもったいないと思います。

 市役所や県庁って何となく近寄り難くないですか?市役所の市民課など入口近くに窓口がある部署はそれほどでもないかもしれませんが、例えば土木課とか財政課に行くのって明確な目的があっても、少し身構えてしまいませんか?まして県庁なんて基本窓口なんてないし、職員も市役所以上に不愛想、部屋に入って職員に声をかけるのって勇気要りません?何せ県職員13年やっている私ですら、他課へ行って知らない職員と話するのは少し憂鬱なぐらいですから(笑)。その点、公共図書館へ行くってのは、非常に気軽なもんです。これが、公共施設の中で図書館が持っている一番のアドバンテージなのです。

 財政状況の厳しい中、公共図書館が生き残りにあがくのであれば、このアドバンテージを活かさない手はないはず。あらゆる行政サービスの窓口として機能を果たせば効果は抜群…って書くと、また色々と異論を挟まれるのでしょうが、これは別に図書館が市役所の支所になれっていう意味ではありません。単に役所との繋ぎ役を果たせばいいということです。もちろん、発展して役所以外のあらゆる所との繋ぎ役となれれば更に言うことなしですけど(生活相談、就職支援、法律相談、医療相談等々)、まずは困ったことがあれば図書館に行く、で図書館で解決できなくても他の専門家(役所の担当者、その他の機関の弁護士、医者etc.)を紹介します、というアピールは、非常に現実的でかつ市民、役所双方の公共図書館に対する株が上がると思うのですけどね。どうして、図書館サービスは全て図書館内で完結させなければならないという制約を勝手に付けて、そういうサービスを完全に否定してしまうのか、ましてせっかくこれまで貸出に励んで敷居を低くしたというのに、貸出に懸命な人達ほど否定的なのか、私にはよく分かりません。これは(自役所の部分に限れば)直営図書館のアドバンテージ、つまり指定管理者が実施するには非常に「敷居の高い」サービスでもあるのですがねぇ…