言いたい放題、行政職員の図書館ツッコミ&へたれ日常blog
※2010.9に新blogに移転しています。ブックマーク等の変更をお願いします。
先日、『ダ・ヴィンチ』を読んでいたら、役所広司のお勧め本が品切重版未定の本で、普通の商業誌なら別の本にしてくれと言うところでしょうが、雑誌の方針か役所広司に物言えずかは分かりませんが、ともかく普通に書店では新刊本が買えないであろうものが載っていたのです。
『ダ・ヴィンチ』に限らず、多少そういう場面で出くわすのですが、その度に図書館が書店購入不可フェアを展開すればいいのに、といつも思うのですが、残念ながら一般の市町村立図書館では品切や絶版の資料所蔵状況が芳しくないかもね。そもそも芳しくない図書館はそんな発想は出ないか…公共図書館って何なのかが分からん図書館ですからね。
うーん、ここ2ヶ月でエントリが2つ。ブログやめようとは思っていないのですが、仕事忙しいのに加えて、左の胸〜脇の下の筋肉挫傷といいますか、激しい肩こりから始まった慢性的な筋の痛みがあって、仕事後までキーボード打つ体調ではなかったのでありますよ。
バファローズ10連敗阻止。光原が変化球主体の投球に変化していたことでファイターズは打ちあぐねていたようですが、それにしても今日の敗因は高橋信二ですよ。いいところで内野ゴロゲッツーはいつものこととしても、武田勝に相性のいいシモヤマンに、第一打席初球インコーススライダーの配球で簡単に読み打ちホームラン、二打席目はストレート主体で組み立てるものと思っていたら外のスライダー要求で右中間、さすがに三打席目は追い込んだのだから外のチェンジアップで誘って四球やむなしと思ったら、まあ勝負球をインコースに構えて「ありえん、絶対打たれる」と叫んだ瞬間に左中間ですよ。そりゃ、梨田も大野を使いたくなるわ…何故に、あそこまで配球が悪いのかしら。グリンが去り、今年から武田勝専属になっているから、更にキャッチャーとしてダメになってしまったのだろうか。
来週から交流戦、良い方に流れが変わるのはドラゴンズとマリーンズの予感。
年度の変わり目で少々更新間隔が空いてしまったので、生存確認のためにメモ的エントリ。一応、専門(?)の県立図書館ネタということですが、資料調査も時間的に厳しいので、とりあえずの感覚メモですが…
最近の県立図書館はどこも運営的に厳しいようですが、ここに至るパターンとしては、大きく「1 バブル(ITバブル含む)期建替型」と「2 バブル期非建替型」に分けられるのかなぁ、と考えています。
1の場合、
バブル期の建替に際し、旧来の県立機能の放棄、直接貸出の重視、ホール・会議室など施設としての多角化に向けた建物設計と予算・人事配置
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オープンからしばらくは来館者・貸出冊数増で好評を得るものの、経年による飽きと資料費等の圧縮で徐々に先細り
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県が財政難に直面、無料貸本屋に多額の運営費を費やす(と当局に認識されている)図書館に対し、指定管理者制度を含む財政的圧力が鮮明に
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しかし、近年の利用者減少傾向からも激しい予算削減を飲まざるを得ず、方向を見失う
(例)徳島県立図書館(先般の新聞記事によると徳島市立よりも資料購入費が少なくなったとか…)
2の場合
バブル期に建替を逃す
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旧来の運営方針のまま、建物の老朽化が進むと共に、また、資料収蔵スペースの狭隘化に悩まされストック機能が果たせなくなる
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新館建設のような予算増加のきっかけもつかめぬまま、利用が低調のまま財政難を迎える
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利用の少ない公共施設として当局から突き上げをくらうも、少額予算と老朽化した建物では改善策も見出せず、方向を失う
(例)長崎県立長崎図書館
いずれも困った状態に陥っていることに違いはないが(この状況からの脱出を図っているのが1のケースだと鳥取県立図書館、2のケースは…どこかな?)、1はバブリーな建物設計により維持管理費と、司書を大量採用している場合は人件費が嵩み、2は建替も望めず予算も1よりも少ない点で、それぞれ苦しんでいることでしょう。
県立図書館としての機能(市町村立のバックヤード機能など)を考えると、運営方針は2の方がまだ残っていると考えられるが、残念ながら資料のストック場所の問題で物理的に機能が果たせず、結局1も2も不十分…という気がします。
あまり司書には意識しにくいかもしれませんが、行政改革的視点で県立図書館を厳しく見ると、「何故県が図書館を運営しなければならないのか」という命題にぶち当たるはずです。国-県-市町村という繋がりが(上意下達的には)緩やかな公共図書館という分野では、県立図書館の存在意義が当局には理解しにくいと思います。まして1のように県立としての機能を一旦放棄して直接貸出による利用で存在意義を示してきた館では、この題に答えることは難しいでしょう。何せ県庁所在地に県立があるとして、その周辺の住民にばかりサービスする理由は県にはないのですから(長崎県立は長崎市立が最近できたということですが、基本的に県庁所在地の市立図書館はある程度立派であると考えると、そこでのサービスは偏在的な二重行政と考えられる)。ここで、某県立のように(来館者・直接貸出数の増加のみを狙った)運営の市立化を目指すと、遠からず当局からの上記指摘で頓挫すると予想します。県は国と市町村の中間自治体であるという立ち位置を、県立図書館としても意識することが、昨今の財政難によって不可欠になっているのです、きっと。
訪れたことがないのですが、兵庫県立図書館は明石市立図書館と隣接していて、内容によっては利用者を市立図書館に振るとか。まだ漠然とした案ですが、高知県立図書館と高知市立図書館の建物合同化という話もあります。こういう形態でも生き残れるような運営を、県立図書館は模索していくしかないのではないかと、最近は考えています。
どうやら、自分にはゼネラリストとしての資質が決定的に足りないのではないかと思い始めている。
元々、広く浅くという知識の収集癖がないではないが、これは多分に昔の趣味的要素(クイズとかなんとか…)の名残であって、実際には好き嫌いが激しい性分なので(人間に対してもそうだが)、好きでもないものに凝るという気質が足りない。
加えて、あまり認めたくはないが、年齢と共にその傾向が顕著になってきて、仕事においても必要以上の知識への執着が薄らいできている。
何をやらせても如才ないと評されていたのも今は昔、5年前のパワハラによる病発症からこちら、自分では何も変わっていないと思っていても、未だに病後として取り扱われている様子。
スペシャリストに転職するのは2年前に試みながら、最終的には自ら放棄した。さりとて、ゼネラリストからゼネラリストとして評される自分というものに、更に嫌気がさしてきた今日このごろ。「誰」を向いて仕事をするか、それを間違えているからだと言われればそれまでだが、中途半端に年を取ったおかげで、得にならない者を向く姿勢になってしまった自分は間違ってはいないと思っているのだから、始末におけない。
仕事が全てではないが、さりとて自己をそこまで卑下するほど役立たずになったとも思わず。一体、何をしたいのか、今はよく分からない。
「公共図書館のボランティア的運営は…」にいただいたコメントに対してのエントリ。直接的な返事とはならないかもしれませんが…
アメリカをはじめ海外の公共図書館において、企業・個人寄付や住民主体のボランティア的運営で成功している例があるとして、それはその国において本当に一般的な事例なのか、そして一見成功していると見えるものに問題点はないのか、という疑問があります。私も海外事例についてそれほど多くの文献に当たった訳ではありませんが、いくつか読んだときに一部の事例をオーソライズして礼賛的に書き過ぎているのではないか、アメリカはここまでしているのに日本ではどうだという比較を主眼とするあまり、単なる差異でスルーすべき点まで対極にある部分を殊更に誇張しているのではないか、という印象を受けた事があります。反対に、日本の公共図書館の先進的事例として千代田区立図書館をアメリカで紹介するとして、日本の指定管理者制度は半官半民のいいとこ取りで、アメリカにはない素晴らしい制度である、という結論で締めることは、指定管理者制度の失敗事例や運営的問題点さえ持ち出さなければ十分可能な訳です。またこの不況下において、寄付やボランティアに頼っていた公共図書館がどういう状況に陥っているのか、あまり聞こえてきませんが大変なことになっているのではないかと予想しています(博物館では学芸員の解雇や作品の売却、閉館などという動きがあると新聞記事で見たことはありますが)。寄付についても、アメリカでは公共図書館の中立性がALAの強力な庇護によって確保されているとは思いますが、本当に色のないお金として公共図書館が執行できているのかを現場検証することも必要でしょう。
ボランティアや寄付的行為を日本の公共図書館にもっと持ち込むことは、私も賛成ですが、それは「一時的な投資」か「ないよりはあった方がいい(言い方が悪ければ「プラスアルファ」の意と捉えてください)」部分、建物や設備の設置や現物資料の寄付、また資料費の上積み、資料整理や補修作業の労力提供などの部分であって、図書館運営の根幹業務に対する人件費や事業費、建物の維持管理費や公共図書館として必要最低限の資料費などの経常経費を外部資金に頼るのは、やはり継続性という点で公共図書館としての体をいずれ成さなくなる危険性が高いと思います。そこまで公が関与しないのであれば、私立やNPO立の図書館として存在した方が自由に制約もなく運営されるでしょう。もう1つは、今の公共図書館運営に関心が高く、指定管理者制度導入に反対する人々に仮に運営を任せたとしたら、どういう事になるかという危惧もあります。
私は、別に日本がアメリカ的な公共関与を目指さなければならないとは思っていません。税金を納めてなお寄付をすることが当然となる社会でなくても、公が適正な課税をして適正に配分してもらった方が、個人や企業にかかる金銭的・精神的・労働的負担は遙かに軽減されると考えているからです。もちろん「適正」の判定とその確保は非常に難しいですが。ただ、これほど日本の公共図書館において指定管理者制度がクローズアップされているのは、財政難により公共図書館そのものが「ないよりはあった方がいい」レベルで認識されていたことが炙り出されている結果でしかありません。だから、いかなる制度であれ、公共図書館に適正な公的予算が回されなくなっているのであり(財政難と言っても図書館への予算的締め付けが他事業より厳しいのはこの理由)、その状態こそが「日本の公共図書館は貧しい」(もちろん予算的なだけではない貧しさを指す)と指摘したい部分です。自ずと、公共図書館が目指すべき方向はこれではっきりしてきたのではないでしょうか。
ただし、公共図書館の再興を実現するためには、これからの司書こそ半ばボランティア的に働かねばならないかもしれません。例えば1000万円分の仕事を400万円の年収でしなければならないように。それは先人の負の遺産によるもので、これはこれで若い司書が先頭に立って批判するべきだと思いますが、一方ではそういう覚悟を持って司書になってほしい、間違ってもただ本が好き、図書館の雰囲気が好き、というモチベーションだけで司書になり、今の業界に無批判に染まるか、あるいは諦めて無気力になる者がこれ以上増えないことを、願うばかりです。
自身が公務員であるからこその保守的な考え方かもしれない、と自分でも思う所はありますが…
指定管理者制度により、住民によるNPOなどの団体が指定管理者として公共図書館を運営することは可能ですし、実際にそういうケースがいくつも出てきています。
もちろん、住民自治という考え方で公共図書館が住民の手で運営されることは好ましいのですが、現実には元館長や職員などが中心となってボランティア的に指定管理者になることで、自治体の財政難を押し付けられているという構図であるケースが多いのではないでしょうか。
今は、定年orその直前の世代の経験知を自治体が安く買うことが可能ですが、将来のことを考えるとこれは考えなしで非常に危険な状態なのではないでしょうか。
もちろん、図書館におけるボランティア的活動や住民参加を否定するものではありません。しかし、公共図書館の責務と役割を考えると、本当は図書館運営の中核業務というのは、それで十分食べていけるだけの内容ある業務であるべきだと思うのです(実態として働き以上に給料を貰う公務員が、特に図書館で多すぎるから指定管理者制度万歳という状態になっているのですが…)。今は団塊の世代に余裕があるから格安の指定管理料で済ませられるのでしょうが、今の20〜30代がその年齢になった時、世代的にそんな余裕は絶対にないと思います。普通に労働に対する対価を頂かないと、生活できないのではないかと。
これから司書になろうとする世代に対して、まともに司書を務めれば適正な報酬を得られるよという体制をとらない限り、少なくとも公共図書館を支えられる人材は30年後には居なくなるでしょう。しかし、努力もしない司書の既得権を論理無く叫ぶだけで、眼前の非正規司書すら放置という業界団体の態度は、本当にどうなんでしょうか…
住民参加も必要ですが、ではその住民に公共図書館とは何であるか、という知を正しく伝える事は誰の責務で継続していくのかと考えた時に、少なくとも今の日本では、住民のみで運営の公共図書館では出発点から無理、あるいは出発してもどこかでその輪が途切れる可能性が高いような気がします。
こういう点で、私は根幹業務の直営維持がベターだとは思うのですが、残念ながら司書の専門性を履き違えた某団体は、単なる官尊民卑と保身から指定管理者制度批判を繰り返すばかりで、自省は全くしない、業界が先細りでも知らない、という態度ですから、これからの司書には気の毒でなりません。
…こんなことを、先日某所で司書になりたいという大学生と話をしながら、自分の身分を隠しつつ考えていました。
それは公共図書館の役割ではない、という論で、貸出に繋がらないサービスを否定するという流れが、図書館界にはあるようですが、公共図書館は実に敷居の低い行政サービスポイントだという意識が、自らに全くないというのは、非常にもったいないと思います。
市役所や県庁って何となく近寄り難くないですか?市役所の市民課など入口近くに窓口がある部署はそれほどでもないかもしれませんが、例えば土木課とか財政課に行くのって明確な目的があっても、少し身構えてしまいませんか?まして県庁なんて基本窓口なんてないし、職員も市役所以上に不愛想、部屋に入って職員に声をかけるのって勇気要りません?何せ県職員13年やっている私ですら、他課へ行って知らない職員と話するのは少し憂鬱なぐらいですから(笑)。その点、公共図書館へ行くってのは、非常に気軽なもんです。これが、公共施設の中で図書館が持っている一番のアドバンテージなのです。
財政状況の厳しい中、公共図書館が生き残りにあがくのであれば、このアドバンテージを活かさない手はないはず。あらゆる行政サービスの窓口として機能を果たせば効果は抜群…って書くと、また色々と異論を挟まれるのでしょうが、これは別に図書館が市役所の支所になれっていう意味ではありません。単に役所との繋ぎ役を果たせばいいということです。もちろん、発展して役所以外のあらゆる所との繋ぎ役となれれば更に言うことなしですけど(生活相談、就職支援、法律相談、医療相談等々)、まずは困ったことがあれば図書館に行く、で図書館で解決できなくても他の専門家(役所の担当者、その他の機関の弁護士、医者etc.)を紹介します、というアピールは、非常に現実的でかつ市民、役所双方の公共図書館に対する株が上がると思うのですけどね。どうして、図書館サービスは全て図書館内で完結させなければならないという制約を勝手に付けて、そういうサービスを完全に否定してしまうのか、ましてせっかくこれまで貸出に励んで敷居を低くしたというのに、貸出に懸命な人達ほど否定的なのか、私にはよく分かりません。これは(自役所の部分に限れば)直営図書館のアドバンテージ、つまり指定管理者が実施するには非常に「敷居の高い」サービスでもあるのですがねぇ…
前回の続きといいますか…
公共図書館における指定管理者制度の現状から、最終形へのカウントダウンが始まっているという少々極論的な感じで前回書きましたが、あの内容については実は半分本気で、半分まだ何とかならないものかと考えているのです。
完全に指定管理者という立場で公共図書館の運営に乗り出したTRCについて少々考えていることがあります。司書の資質向上も目指すという図書館振興財団の設立は気にならないではないですが、漏れ聞こえるところではTRCの指定管理は「普通の公共図書館」レベルだと思われます。この「普通」というのが何に対してなのかは難しいのですが、対予算と言っても、対公共図書館のあるべき姿と言ってもいいのかもしれません。つまり、「普通レベルに達していなかった公共図書館」を予算を削減しつつ「普通の公共図書館」にした功績で、次々と指定管理者に指定されている、そういう事ではないでしょうか。
だからと言って、TRCは大したことないということではありません。積極的に日本の公共図書館を「普通レベル」にしてくれているのですから。これは、多くの館で公務員経営ではもはや無理であったことなのでしょうし。
さて、そこここでTRCが指定管理者になっていくと、効率化として物流も情報も中央(本社)集約型になり、そのうち配本だけでなくレファレンスや相互貸借、督促業務なんかも集約されるのではないかと予想しています。レファレンスの場合、その地方に固有のレファレンスでない限り、中央のレファレンスセンターで調べ回答するシステムができるのではないかと。ある程度の地域でまとまれば、郷土レファレンスも集約可能になるかもしれません。相互貸借も指定管理者となっている図書館間や本部保管資料で行うとか、督促も電話やメールであれば離れた所で集約して行う方向に行くのではないでしょうか。最終的には図書館では貸出のみ、その他の業務はセンターに、という完全な機能分担が図られる日が来るかもしれません。こうすれば、現場の人員削減を始め、予算削減はまだ十分に可能です。
別にこれはTRCに限らなくても、例えばレファレンスなら直営・指定管理関係なく都道府県単位の構想として県と市町村でも可能なことでしょうが、とりあえずTRCの方が現実に近いだろうと考えたので、TRCが…と書いたものです。
で、こんなことを書くと図書館関係者から総スカンを喰らうかもしれませんが、公共図書館が指定管理者制度の下で生き残る可能性は、TRCが握っているのではないか、と思うのです。あと5年や10年では無理かもしれませんけど、将来的にはTRCを指定管理者にすることのスケールメリットが、多くの直営やその他の指定管理者の公共図書館を凌駕していく、この展開がうっすらですけど見えるのです。
これに乗っていけば、公共図書館はしばらく延命できるでしょう。しかし、これは今まで以上に「普通の図書館」を製造していくシステムです。地域性や独自性を十分に発揮した「味のある図書館」は決して生まれません。
数は少ないかもしれませんが、すでに「味のある図書館」が財政難でこの方向に流されないこと、また「味のある図書館」が増えることを、私は切に願うのですが…何かが論理的に矛盾しているような気もします。
※TRCに関する予想はあくまで個人の感覚的なものですので、全然方向が違っていたらごめんなさい、です。
「指定管理者制度導入≠民営化」は、「指定管理者制度と公共図書館への導入について」のレジュメでも、拙ブログのエントリでも、今まで強調して書いております。
が、こと公共図書館においては、実例が重なれば重なるほど、「指定管理者制度導入=民営化」という認識が浸透し(しかも導入賛成派も反対派もほぼ同じような認識というのが何とも不思議な構図なのだが…)、更に悪いことに実態がその通りである例が多いようです。
本来、指定管理者制度というのは、公の施設の運営管理を指定管理者に丸投げする制度ではありません。地方公共団体は、自らの施設としてその機能を発揮するために運営の枠組みや方向性を決定し、その実現のために指定管理者に指定管理料を支払って運営をしてもらう、指定管理者はその指定管理料(+入場料や施設使用料など)を元に地方自治体が目指す施設の実現に向けて、その専門性などを以って創意工夫しながら運営する、そういう制度です。
指定管理者は、地方自治体から指名される時も、指名後も指定期間中は1年に1回(以上)、事業計画書を地方自治体に提出し、計画が承認された後でないと施設運営はできないのです。また事業終了後も事業報告書の提出と承認の手続きがあります。もちろん、指定管理者側からこういう施設にしたら如何ですか、こういう方向性は如何ですか、という提案に基づいて、地方自治体と方向性を探るやり方もあるでしょうが、基本は地方自治体がその施設をどう運営したいのか、いわゆるビジョンがないことには、指定管理者の事業計画や提案を検討することすらできないのです。
しかしながら、実態はどうなんでしょうか…といえば、地方自治体がそんなビジョンを持っている施設なんてどれだけあるのやら、という感じです。おそらく、指名する時は指定管理料の安さで指定管理者を選定し、指定後は利用率、利用者アンケート、また外部識者による評価委員会などの評価を形だけ整えて、それほど悪い評価にならない限りは、指定管理の内容に興味はない、という地方自治体が大半なのでしょう。
公共図書館でこうなるとどういう運営になるのか、というのはもう説明しなくても…ということなのですが、私は特に公共図書館の指定管理者制度というのは、最終形への一過程に過ぎないと思っています。地方自治体は財政難による経費削減策として、とりあえず指定管理者制度に飛びついている状態ですので、指定管理の内容なんて利用者や議員から苦情が出ない限り、気にもしないでしょう。しかしこのままあと5年も経てば、今の指定管理者の指定期間が終わる時期となりますが、多くの地方自治体は更に財政が苦しくて、指定管理料の予算も組めなくなるでしょう。そうして次の指定管理者のなり手がいなくなった時、果たして図書館をどうするのでしょうか?…つまり、先ほどの最終形というのは、指定管理者制度も維持できなくなって、廃止という選択をするということです。指定管理者制度というカードを早く切ってしまった地方自治体ほど、この最終形までの期間が短いのではないか、とも予想しています。
一つ光明と言いますか、このような予想が外れる可能性が公共図書館には大いにあります。何かというと、公共図書館の廃止には、恐らく住民の反発が他の公共施設と比べて非常に強いだろうという要素です。これにより、政治家は簡単に図書館を廃止すると言えないのです。
しかしよく考えてみて下さい。確かに廃止までには至らなくとも、指定管理者制度が維持できなくなった後に直営で存続するというのは、もはやそれは公共図書館の最低限の体すら成さない予算と人員しか用意できない状態ではないでしょうか。その状態も最終形と同義として差し支えないのかな、と思います。
(いつか続きます…)
コモディティ化→高価な商品の低価格化、普及品化
(コモディティ→必需品、日用品)
ポピュラリゼーション→大衆化
つまり、公共図書館はコモディティ化を目指さなければならないところを、ポピュラリゼーションと履き違えてしてしまったのだろう。
その違いに気が付かない限り、指定管理者制度も委託も市場化テストも、攻めたところでまるで意味を成さない……と考える今日この頃。